欧洲紀行
本文約90,000字 ・ 読了時間 約181分
あらすじ(AIが作成しました)
門司を出港した著者が、上海、香港を経由して欧州へ向かう船中の心理や、各地の風景と文化を綴る紀行。行く先々で出会う人々や出来事を通じて、異国の地で感じた価値の変化を記録する。また、旅の途中で訪れたソ連において、アンドレ・ジイドと対面した際のエピソードを交え、ロシアの社会状況や人命尊重の重要性を論じる。船上の孤独や退屈に触れつつ、異文化に対する独自の視点や知性についての考察を深めていく。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
二月二十二日[注・昭和十一年]家人への手紙 一 今さき門司を出た。疲れているので手紙を書く気もしない。船のなかは馴れると楽だが頭がぼんやりして眠る前のようだ。温かく上衣を脱ぎたいほどだが、うっかり手紙をサロンで書いていると、突然日本海から隙間風が来て咳が出る。まだ風邪が癒らないのだと思う。あわてて隙間風のこない所へ逃げてまたペンを持つ。
これから出す手紙は保存しておいてほしい。その時、思ったことを書きつけておくのは手紙に限る。僕が持っていると失って了うおそれがあるから番号でも書いて保存しておいてほしい。但し何も書かないことだろうと思うが、船中の心理の移動、自然の変化と自分の気持ちを後で引きくらべてみたいと思うから。
昨夜事務長が、七つの男の子がロンドンから日本までお婆さんを慕って一人で帰った話をした。それも自分からどうしても一人で帰るといってきかないのでロンドンの親達も困って一人で帰らしたとのことだ。何処やらの日本婦人が世界を廻って帰って来て、横浜まで船が入ると、どぶんと海へとびこんで死んだという話もきいた。
海ばかりを廻って来ると悩みがあればさもあろう。それは何んでもないことだ。
僕の食卓は高浜虚子さんとお嬢さん、機関長上ノ畑純一氏と僕の四人である。
二月二十四日 午前九時半、上海着。友人の今鷹の家の階段を昇って行くと、下から大きな声で呼ぶ者があるので、ふと下を見ると山本実彦氏である。全く偶然のこととて、降りて話をしたいと思うが、今鷹ともまだ挨拶もしないから、二階へそのまま上り込み、茶を一ぱい飲んでまた階下の内山書房へ降りて行く。書房には魯迅氏と実彦氏、内山書房主と三人。魯迅氏は昨夜から改造の原稿執筆のため眠らずとのこと、蒼顔、髯濃く、歯並美し。一同、南京路の新雅で中食の御馳走になる。
出発。疲れているので、上海のことは後日に廻し日記は香港から書こうと思う。
天井に潮騒映る昼寝かな