寅彦夏話
本文約3,900字 ・ 読了時間 約8分
あらすじ(AIが作成しました)
夏になると元気を取り戻す寅彦先生の、助手であった著者による回想録。実験室で語られた海坊主や人魂といった化物の物理的説明、線香花火や金米糖の構造に関する考察、さらには教科書の記述に疑問を持ち始まった墨流しについての研究など、日常の不思議を科学の視点から捉え直そうとする先生の姿勢と、その研究風景を描く。物理学の視点から身近な現象を解き明かそうと試みた知的な対話や研究の記録を綴る。
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一 海坊主と人魂
寅彦先生が亡くなられてから二度目の夏を迎えるが、自分は夏になると妙にしみじみと先生の亡くなられたことを感ずる。大学を出て直ぐに先生の助手として、夏休み中狭い裸のコンクリートの実験室の中で、三十度を越す炎暑に喘ぎながら、実験をしていた頃を思い出すためらしい。
先生は夏になると見違えるほど元気になられて、休み中も毎日のように実験室へ顔を出された。そしてビーカーに入れた紅茶を汚なさそうに飲みながら、二時間位実験とはとんでもなくかけはなれた話をしては帰って行かれた。
夏休みのある日のことであった。その日は何かの機縁で化物の話が出た。
僕も幽霊のいることだけは認める。しかしそれが電磁波の光を出すので眼に見えるとはどうも考えられない。幽霊写真というようなものもあるが、幽霊が銀の粒子に作用するような電磁波を出すので写真に写るという決論にはなかなかならないよ。幽霊写真位、御希望ならいつでも撮ってみせるがね。海坊主なんていうものも、あれは実際にあるものだよ、よく港口へきていくら漕いでも舟が動かなかったという話があるが、あれなんかは、上に真水の層があって、その下に濃い塩水の層があると、その不連続面の所で波が出来るためなんだ。漕いだ時の勢力が全部その不連続面で定常波を作ることに費されてしまうので、舟はちっとも進まないというようなことが起るのだ。確かそんな例がナンセンの航海記にもあったようだし、ノルウェーかどこかの物理学者でその実験をした人もあったよ。だから海坊主の出る場所は大抵河口に近い所になっている。もっとも海坊主にも色々種類はあるだろうがね。
人魂なんか化物の中じゃ一番普通なものだよ。あれなんかはいくらでも説明の出来るものだ。確か、古い Phil. Mag.(物理の専門雑誌)に On Ignis fatuus という題の論文があるはずだが。Ignis fatuus というのは人魂のことだよ。誰か探して読んで見給え。