TRENDIA CLASSIC

火星の運河

江戸川乱歩

1 / 6

又あすこへ来たなという、寒い様な魅力が私を戦かせた。にぶ色の暗が私の全世界を覆いつくしていた。恐らくは音も匂も、触覚さえもが私の身体から蒸発して了って、煉羊羹の濃かに澱んだ色彩ばかりが、私のまわりを包んでいた。

頭の上には夕立雲の様に、まっくらに層をなした木の葉が、音もなく鎮り返って、そこからは巨大な黒褐色の樹幹が、滝をなして地上に降り注ぎ、観兵式の兵列の様に、目も遙に四方にうち続いて、末は奥知れぬ暗の中に消えていた。

幾層の木の葉の暗のその上には、どの様なうららかな日が照っているか、或は、どの様な冷い風が吹きすさんでいるか、私には少しも分らなかった。ただ分っていることは、私が今、果てしも知らぬ大森林の下闇を、行方定めず歩き続けている、その単調な事実だけであった。歩いても歩いても、幾抱えの大木の幹を、次から次へと、迎え見送るばかりで景色は少しも変らなかった。足の下には、この森が出来て以来、幾百年の落葉が、湿気の充ちたクッションを為して、歩くたびに、ジクジクと、音を立てているに相違なかった。

聴覚のない薄暗の世界は、この世からあらゆる生物が死滅したことを感じさせた。或は又、不気味にも、森全体がめしいたる魑魅魍魎に充ち満ちているが如くにも、思われないではなかった。くちなわの様な山蛭が、まっくらな天井から、雨垂れを為して、私の襟くびに注いでいるのが想像された。私の眼界には一物の動くものとてなかったけれど、背後には、くらげの如きあやしの生きものが、ウヨウヨと身をすり合せて、声なき笑いを合唱しているのかも知れなかった。

でも、暗闇と、暗闇の中に住むものとが、私を怖がらせたのは云うまでもないけれど、それらにもまして、いつもながらこの森の無限が、奥底の知れぬ恐怖を以て、私に迫った。それは、生れ出たばかりの嬰児が、広々とした空間に畏怖して、手足をちぢめ、恐れ戦くが如き感じであった。

私は「母さん、怖いよう」と、叫びそうになるのを、やっとこらえながら、一刻も早く、暗の世界を逃れ出そうと、あがいた。

江戸川乱歩の他の作品