私も講演をした
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あらすじ(AIが作成しました)
講演やテーブルスピーチが不得手である著者が、一生避けようと決意していた演説を、帝大と早大の記念講演会で引き受けた際の体験を綴る。演壇に立つことへの戸惑いや準備の過程、慣れない環境で感じた官僚的な雰囲気、そして実際の登壇時に味わった苦闘と、終了後の茶話会における青年との交流を描写する。金銭を受け取る際の率直な戸惑いを通じ、自身の執筆活動に対する姿勢や経験と演説という行為を比較し、内省的に振り返る一編である。
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圓本續出の時代にはこの宣傳に利用されたためか、文學者の講演が盛んであつたが、このごろはあまり流行しなくなつた。文筆業者のうちでも、新聞記者とか政治、經濟の評論家とかいふ種類の人々は、演説にも馴れてゐて、自然上手になつてゐる譯だが、小説家や詩人のやうな純文學者は概して演壇向きでないやうである。だから聽衆の方でも知名の文人の顏を見るだけの興味で會場へ行くので、演説そのものに感心することは甚だ稀なのではないかと思はれる。文學者講演會の次第に流行しなくなつたのも、そのせゐではあるまいか。
改つた演説は不得手であつても、テーブルスピーチは、文壇の諸氏もなか/\上手になつた。これは文壇人の會合に限つたことではないが、日本人は、この點でも西洋の流風に習つて宴會の卓上演説が巧みになつて來た。日本人の素質からいつても、講壇上の本式の演説よりも簡單なテーブルスピーチを、小器用にやつてのけるのは、さもあるべきことのやうに思はれる。しかし、この卓上演説の進歩發達も、時としては害毒を流す傾向がないでもない。私などたまに會合に出席してこつてりした西洋料理で食もたれをしてゐる後で、次から次へと、五分十分の演説が續くので苦惱を覺えることがあるのである。スピーチする人は、みんな巧い。氣の利いたことをいひたがり、諧謔を弄して人を笑はせようと企てられてゐる。二つ三つはいゝとして、續々と、それをやられるのは私には甚しく閉口なのである。