本文へ移動
TORENDIA

『広辞苑』自序

本文約3,300字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

明治から昭和にかけて国語学を修めた著者が、自身の辞典編纂の歩みと『広辞苑』完成に至るまでの経緯を綴る。若き日の辞書編集への憧れから、先学の業績に触れつつ分解的な考究に専念した経験、戦中戦後の困難を経て岩波書店と共に進めた大規模な修正と増補の過程を回顧する。本書が目指した語彙の網羅性と正確性、そして家族や協力者らとの共同作業の軌跡を記し、長年の努力が結実したことへの感慨と感謝を込めて編者の抱負を述べる。

新村出

速度
🎧 『広辞苑』自序 / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 5

いまさら辞典懐古の自叙でもないが、明治時代の下半期に、国語学言語学を修めた私は、現在もひきつづいて恩沢を被りつつある先進諸家の大辞書を利用し受益したことを忘れぬし、大学に進入したころには、恩師上田万年先生をはじめ、藤岡勝二・上田敏両先進の、辞書編集法およびその沿革についての論文等を読んで、つとに啓発されたのであった。柳村上田からは『新英大辞典』の偉業の紹介を「帝国文学」の誌上で示され、目をみはって海彼にあこがれた。われらもいかにしてか、理想的な大中小はともかくも、あんなに整った辞典を編んでみたいものだと、たのしい夢を見たのであった。

かくて、英米独仏の大辞書の完備に対して限りなき羨望の情が動き、ひたむき学究的な理想にのみふけりつつ、青春の客気で現実的方面については一層暗愚であったことは、後年とほぼ同様であった。卒業後の三年めの明治三十五年(一九〇二年)から凡そ五年間、それぞれの大辞典の編著や統理に成功を収めた上田・大槻・芳賀・松井等の諸先覚には、他方において国語の研究や調査や教育や改善やの諸事業にわたって計るべからざる種々の資益を得たことが、かれこれと想起されてくる。とりわけ、上田・松井両博士の『大日本国語辞典』と、大槻博士の『大言海』とに関しては、身親しくその編集室に見学した縁故もあったのみか、殊に後者の校訂には深く参与し、前者の再刊に際しては僅少ながら接触したゆかりもあって、自分のためにも、何かと参考に資せられて幸福であった。その後も、かれこれ二つばかりの辞典の編集に参画はしたものの、元より綜合統理の任に当った次第ではなかった。それに反して、自分の仕事は、主として語原や語史、語誌や語釈の、主として分解的な、しかし根本的本質的な方面の考究に専念し、綜合的方面の事業に意を致し力を注ぐまでには至らなかった。それは、自分自身の研究が、当初は音韻および文字に、やや進んでからは漸次語法や語義に及び、後年には段々と語誌に向って来たのであって、要は分解を主とし、綜合にうとかった。

新村出の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本