TRENDIA CLASSIC

早稲田大学について

尾崎士郎

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批判という言葉に拘泥すると、早稲田大学という特定な学校形式はまったく存在のないものになってしまう。特に学生のもつ生活内容が、内側から生ずる思想や情熱の環境によって基礎づけられることが稀薄となり、常に外側から来る政治力と結びつくことによって決定されるような傾向を示している時代には、特に学校の性格だけをとりあげて云々するということそれ自体が既に一種の時代錯誤でもあろう。

しかし、それにもかかわらず、不思議に一つの伝統的雰囲気というべきものは、むしろ学校のワクをはなれて一般民衆の生活感情の上に濃厚に反映している。

必ずしも官学と私学という対立的な認識の上に立たなくとも、東大、早稲田、慶応、明治、法政、といったような学校形式の上にあらわれた気質的相違はおそらく牢として抜くべからざる絶対的な感情を示しているのだ。ところで、今日(五月二十七日)の「読売新聞」で、最近の大学を目標とする、教育と政治との限界について開かれた座談会記事を読んだが、その最後に長谷川如是閑が、結論的な意味で、おもしろい意見を述べている。

昔のはなしだが中央大学で予科を廃止した、それが事前に学生にわかって学生はストライキを起した、テーブルを片っぱしから倒し、先生がくると拍手をして追い返した、そのとき若槻礼次郎先生は、その倒れている机を乗り越えて、自分の受持ちの教室の演壇に立って、だれもいない教室でリーダーをひろげて講義をはじめた、廊下にはストライキを起した学生が教室の中をのぞいていたんだが、そのうちに一人入り二人入り、倒れている机を起して、いつのまにかみんな学生が入ってきて若槻先生の講義を聴きだした、つまり、ストライキでさわいだ学生が若槻先生の気魄に呑まれてしまったわけで、いまの大学教授には、そういう度胸のあるひとはいない。

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