原民喜君を推す
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あらすじ(AIが作成しました)
三田文學の書き手たちの気風に注目する著者は、水上瀧太郎賞の選考過程において原民喜の文学を高く評価する。文壇の流行と距離を置きつつ、自己の文学を追求する彼らの姿勢に共感した著者は、原の作品が持つ特異な個性と高い完成度を重視する。神経質な内面性と知的な即物性を兼ね備えた独特な作風が、驚天動地の事実に即した『夏の花』などの描写において如何に結実しているかを分析し、その作家としての資質と今後の活躍への期待を綴る。
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數年前から漠然とこの頃の三田文學には人材が集つてゐるやうな氣がしてゐた。戰爭中で外の雜誌に文學の色彩が薄れてゐる時に、これがあまり時勢に追從せずにゐたためかと思ふ。終戰後山の中から文壇といふものを遠く見てゐると、だいぶんいろいろの新人が出て文壇の樣相が新らしくなつて行くのがよく判つた。さて三田の人々をこれ等の文壇と見くらべると、みなそれぞれの特色がありながら文壇の新人といふものと違つてゐるものを自分は面白く思つた。文壇といふものに關係なく自分たちの文學を書いてゐるふうに見えるのである。或はとり殘されてゐるといふのかも知れない。文壇にとり殘されても文學に置き忘れられさへしなければ一向かまはない。恐ろしいのはその逆の場合であらう。三田の人々は、しかしその心配はない。彼等は文壇にはとり殘されながらにも文學だけは忘れてゐないやうな頼もしさを感じて文壇にとり殘されてゐるおかげでせめて文學だけはといふ氣持になつてゐるのかも知れないが、何にしても好もしい現象と思つて見てゐた。
そのうちに水上瀧太郎賞といふものが出來たのは、どういふ目的なのだか。或は文壇の郊外にゐる三田の人々に盛裝をさせて文壇の混雜のなかへ送り入れようといふのかとも思ふが、よく知らつい[#「知らつい」はママ]。しかし自分としては文壇ずれのしない三田の人々の持つてゐる氣風を文壇に送る事は文壇に新風を吹き入れる事を目的とすべきで、三田の人材を文壇的にする目的であつてはいけないやうな氣がする。これは自分だけの考へであるが自分としてはその考へに立脚してこの文學賞の候補者を物色する外に致し方も無いわけであつた。
受賞候補者の作品を幾つか讀んでみて、自分は近年の三田には人材がゐるといふ年來の自分の漠然たる見方の大して誤つてゐなかつた事をはつきりと見た。なかなか書ける人が二三ならずゐる。それが必ずしも時代には沒交渉ではなく相當な文學になつてゐながら文壇とは縁の遠いところのあるのも自分には頼もしく思へた。それ等の幾人かの間から自分が特に原民喜をひとり選ばうとしたのは、どういふ理由か。