半七捕物帳
本文約15,800字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
江戸末期の番町を舞台に、旗本の妻・お道が体験したという不可解な怪異の真相を巡る物語。夫の屋敷で深夜、枕元に女の幽霊が現れるというお道の訴えに対し、兄は憤慨し調査を試みる。物語は、この怪異の裏側に潜む妻の真意や、半七という男が関与した事件の顛末を描く。江戸の隠れたシャーロック・ホームズと称される半七が、人知れず謎を解き明かしていく過程に焦点を当てる。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一
わたしの叔父は江戸の末期に生れたので、その時代に最も多く行はれた化物屋敷の不入の間や、嫉み深い女の生靈や、執念深い男の死靈や、さうしたたぐひの陰慘な幽怪な傳説を澤山に知つてゐた。しかも叔父は「武士たるものが妖怪などを信ずべきものでない。」といふ武士的教育の感化から、一切これを否認しようと努めてゐたらしい。その氣風は明治以後になつても失せなかつた。わたし達が子供のときに何か取留めのない化物話などを始めると、叔父はいつでも苦い顏をして碌々に相手にもなつて呉れなかつた。
その叔父が唯一度こんなことを云つた。
「併し世の中には解らないことがある。あのおふみの一件なぞは……。」
おふみの一件が何であるかは誰も知らなかつた。叔父も自己の主張を裏切るやうな、この不可解の事實を發表するのが如何にも殘念であつたらしく、それ以上には何も祕密を洩さなかつた。父に訊いても話してくれなかつた。併しその事件の蔭にはKのをぢさんが潜んでゐるらしいことは、叔父の口ぶりに因つて略ぼ想像されたので、わたしの稚い好奇心は到頭わたしを促してKのをぢさんのところへ奔らせた。私はその時まだ十二であつた。Kのをぢさんは、肉縁の叔父ではない。父が明治以前から交際してゐるので、わたしは稚い時から此人ををぢさんと呼び慣はしてゐたのである。
わたしの質問に對して、Kのをぢさんも滿足な返答をあたへて呉れなかつた。
「まあ、そんなことは何うでも可い。つまらない化物の話なんぞすると、お父さんや叔父さんに叱られる。」
ふだんから話好きのをぢさんもこの問題については堅く口を結んでゐるので、わたしも押返して詮索する手がかりが無かつた。學校で毎日のやうに物理學や數學をどしどし詰め込まれるのに忙しい私の頭からは、おふみと云ふ女の名も次第に煙のやうに消えてしまつた。それから二年ほど經つて、なんでも十一月の末であつたと記憶してゐる。わたしが學校から歸る頃から寒い雨がそぼそぼと降り出して、日が暮れる頃には可なりに強い降りになつた。Kのをばさんは近所の人に誘はれて、けふは午前から新富座見物に出かけた筈である。