鰻に呪われた男
本文約15,700字 ・ 読了時間 約32分
あらすじ(AIが作成しました)
ある温泉宿で長年過ごす田宮夫人は、初対面の語り手に三十余年抱え続けてきた秘密を語る。夫人は十九歳の時に結婚したが、新婚旅行先で夫の異様な嗜好と秘密を知り、夫はそのまま失踪した。夫は後に他人の鰻を食らう異常な癖を抱えていたことが判明し、その過去には夫人が縁談当夜に見た鰻として俎板に上がる不吉な夢と重なる因縁があった。本作は、ある女性の語りを通じて、夫の奇妙な運命と隠された私生活を紐解く物語である。
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一
「わたくしはこの温泉へ三十七年つづけて参ります。いろいろの都合で宿は二度ほど換えましたが、ともかくも毎年かならず一度はまいります。この宿へは震災前から十四年ほど続けて来ております。」
痩形で上品な田宮夫人はつつましやかに話し出した。田宮夫人がこの温泉宿の長い馴染客であることは、私もかねて知っていた。実は夫人の甥にあたる某大学生が日頃わたしの家へ出入りしている関係上、Uの温泉場では××屋という宿が閑静で、客あつかいも親切であるということを聞かされて、私も不図ここへ来る気になったのである。
来て見ると、私からは別に頼んだわけでもなかったが、その学生から前もって私の来ることを通知してあったとみえて、××屋では初対面のわたしを案外に丁寧に取扱って、奥まった二階の座敷へ案内してくれた。川の音がすこしお邪魔になるかも知れませんが、騒ぐようなお客さまはこちらへはご案内いたしませんから、お静かでございますと、番頭は言った。
「はい、田宮の奥さんには長いこと御贔屓になっております。一年に二、三回、かならず一回はかかさずにお出でになります。まことにお静かな、よいお方で……。」と、番頭はさらに話して聞かせた。
どこの温泉場へ行っても、川の音は大抵付き物である。それさえ嫌わなければ、この座敷は番頭のいう通り、たしかに閑静であるに相違ないと私は思った。
時は五月のはじめで、川をへだてた向う岸の山々は青葉に埋められていた。東京ではさほどにも思わない馬酔木の若葉の紅く美しいのが、わたしの目を喜ばせた。山の裾には胡蝶花が一面に咲きみだれて、その名のごとく胡蝶のむらがっているようにも見えた。川では蛙の声もきこえた。六月になると、河鹿も啼くとのことであった。
私はここに三週間ほどを静かに愉快に送ったが、そういつまで遊んでもいられないので、二、三日の後には引揚げようかと思って、そろそろ帰り支度に取りかかっているところへ、田宮夫人が来た。夫人はいつも下座敷の奥へ通されることになっているそうで、二階のわたしとは縁の遠いところに荷物を持ち込んだ。