一
お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。
「某は高坂弾正と申して、信玄公被管の内にて一の臆病者也、仔細は下々にて童子どものざれごとに、保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅とて……」
それは巻の二の品の第五を、はじめから、お銀様はスラスラと読みました。
竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み了って第七にかかろうとする時分に、
「有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
柱に凭れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。
「何の花」
「椿の花」
お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄ぶようにしていました。
「たあいもない」
竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの花活も何もありません。
「お銀」
竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己が妻の名を呼ぶような呼び方であります。
「はい」
お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
お銀様は椿の花を面に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
お銀様はクルクルと、椿の花を指先で操りました。