大菩薩峠
本文約83,300字 ・ 読了時間 約167分
あらすじ(AIが作成しました)
竜之助とお銀様は甲陽軍鑑の読書を通じ静かな時間を過ごすが、部屋の仏壇に安置された「悪女大姉」と記された位牌を見つけたお銀様は心穏やかでいられなくなる。一方、山路では地蔵を背負う怪力の大男・与八や、馬子から武士の姿へと変貌しお松を導く謎の男が登場する。物語は甲州から江戸を目指す多様な人物の思惑や奇妙な縁が複雑に交錯し、山河を舞台に流転する彼らの運命を重層的に描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。
「某は高坂弾正と申して、信玄公被管の内にて一の臆病者也、仔細は下々にて童子どものざれごとに、保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅とて……」
それは巻の二の品の第五を、はじめから、お銀様はスラスラと読みました。
竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み了って第七にかかろうとする時分に、
「有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
柱に凭れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。
「何の花」
「椿の花」
お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄ぶようにしていました。
「たあいもない」
竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの花活も何もありません。
「お銀」
竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己が妻の名を呼ぶような呼び方であります。
「はい」
お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
お銀様は椿の花を面に当てて、その二つの葉の間から竜之助の面をながめました。
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
お銀様はクルクルと、椿の花を指先で操りました。