踊る地平線
本文約27,000字 ・ 読了時間 約55分
あらすじ(AIが作成しました)
東京駅発の急行列車に乗り込んだ夫婦は、日本を離れ、シベリア鉄道を経て欧州へと向かう長旅の途に就く。車中で出会う多彩な乗客たちとの交流や、各地で遭遇する異国の風景を重ねながら、二人は国際的な漂泊者としての心持ちを深めていく。旅の過程でモスクワの赤の広場やレーニン廟を訪れるなど、移動を繰り返しながら世界各地の光景を鮮明に焼き付け、最終的にイギリスの断崖を視界に捉えるまでの軌跡を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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SAYONARA
がたん!
――という一つの運命的な衝動を私たちの神経につたえて、午後九時十五分東京駅発下関行急行は、欧亜連絡の国際列車だけに、ちょいと気取った威厳と荘重のうちにその車輪の廻転を開始した。
多くの出発と別離がそうであるように、じつに劇的な瞬間が私たちのうえに落ちる。
まず、車窓のそとに折り重なる人の顔が一つひとつ大きな口に変って、それら無数の巨大な口腔が、おどろくべき集団的訓練のもとにここに一大音響を発した。あああ――あい! というのだ。ばんざああい!
では、大きな声で『さよなら!』
さよなら!
そしてまた『ばんざあい!』
この爆発する音波の怒濤。燃焼する感激。立ちのぼる昂奮と人の顔・顔・顔。そして夜のプラットフォームに漂う光線の屈折――それらの総合による場面的効果は、ながい長い行程をまえに控えている私達の心臓をいささか民族的な感傷に甘えさせずにはおかない。が、そんな機会はなかった。交通機関はつねに無慈悲にまで個人の感情に没交渉である。彼女が贈られた花束を振り、私が、この刹那の印象をながく記憶しようと努力しているうちに、汽車はじぶんの任務にだけ忠実に、well ――急行だから早い。さっさと出てしまった。私たちは車室へ帰る。
皿のうえの魚のように、彼女はいつまでも花束とともに黙りこくって動かない。何が彼女の脳髄を侵蝕しているのか、私にはよくわかる。東京と東京の持つすべて、日本と日本のもつすべてから時間的にも地理的にも完全に離れようとするいま、私達は急に白っぽい不安に捉われ出したのだ。それはふたりのすこしも予期しなかった、そして、それだけまた自然すぎる、漠然たる憂鬱だった。