祇園の枝垂桜
本文約1,600字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
京都祇園にある名木、枝垂桜の美しさとその周辺で繰り広げられる春の夜の光景を綴る。蒼い空と東山を背に妖艶に浮かぶ桜の姿に著者は美の神を見出し、その下で老若男女や職業を問わず自然に輪になって踊る人々の様子を描写する。社会の苦労を忘れ、人々が入り乱れて遊ぶことの意義を思索しながら、その光景の中に美と善を見出し、人間性の守護神として桜の若返りと人々の幸福を願う随筆である。
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私は樹木が好きであるから旅に出たときはその土地土地の名木は見落さないようにしている。日本ではもとより、西洋にいた頃もそうであった。しかしいまだかつて京都祇園の名桜「枝垂桜」にも増して美しいものを見た覚えはない。数年来は春になれば必ず見ているが、見れば見るほど限りもなく美しい。
位置や背景も深くあずかっている。蒼く霞んだ春の空と緑のしたたるような東山とを背負って名桜は小高いところに静かに落ちついて壮麗な姿を見せている。夜には更に美しい。空は紺碧に深まり、山は紫緑に黒ずんでいる。枝垂桜は夢のように浮かびでて現代的の照明を妖艶な全身に浴びている。美の神をまのあたり見るとでもいいたい。私は桜の周囲を歩いては佇む。あっちから見たりこっちから見たり、眼を離すのがただ惜しくてならない。ローマやナポリでアフロディテの大理石像の観照に耽った時とまるで同じような気持である。炎々と燃えているかがり火も美の神を祭っているとしか思えない。
あたりの料亭や茶店を醜悪と見る人があるかも知れないが、私はそうは感じない。この美の神のまわりのものは私にはすべてが美で、すべてが善である。酔漢が一升徳利を抱えて暴れているのもいい。群集からこぼれ出て路端に傍若無人に立小便をしている男も見逃してやりたい。どんな狂態を演じても、どんな無軌道に振舞っても、この桜の前ならばあながち悪くはない。
今年は三日ばかり続けて散歩がてらに行ってみたが、いつもまだ早過ぎた。三日目には二、三分通りは花が開いていた。その後は雨に振り込められたり世事に忙殺されたりして桜のことを忘れていた。思い出して行った午後にはもう青葉まじりになってチラリチラリと散っていた。七、八分という見頃から満開にかけてはとうとう見損ってしまった。