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TORENDIA

小唄のレコード

本文約830字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

北京から帰国途中の林芙美子と成瀬無極が、京都の著者の家を訪れる。対支外交や文化情勢について語り合った後、三人は小唄のレコードを聴く。その旋律に心をゆだねた三人は、世俗の苦悩の無意味さを共有し、深い共感の中で涙を流す。著者は、レコードから流れる純粋な旋律の力を通じて、名誉や所有から離れ、純粋な情感の世界に没入する自身の境地を綴り、小唄がもたらす魂の解放と死生観を論じる。

九鬼周造

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🎧 小唄のレコード / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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林芙美子女史が北京の旅の帰りに京都へ寄った。秋の夜だった。成瀬無極氏と一緒に私の家へ見えた。日本の対支外交や排日問題などについて意見を述べたり、英米の対支文化事業や支那女性の現代的覚醒を驚嘆していた。支那の陶器の話も出た。何かの拍子に女史が小唄が好きだといったので、小唄のレコードをかけて三人で聴いた。

「小唄を聴いているとなんにもどうでもかまわないという気になってしまう」

と女史がいった。私はその言葉に心の底から共鳴して、

「私もほんとうにそのとおりに思う。こういうものを聴くとなにもどうでもよくなる」

といった。すると無極氏は喜びを満面にあらわして、

「今まであなたはそういうことをいわなかったではないか」

と私に詰るようにいった。その瞬間に三人とも一緒に瞼を熱くして三人の眼から涙がにじみ出たのを私は感じた。男がつい口に出して言わないことを林さんが正直に言ってくれたのだ。無極氏は、

「我々がふだん苦にしていることなどはみんなつまらないことばかりなのだ」

といって感慨を押え切れないように、立って部屋の内をぐるぐる歩き出した。林さんは黙ってじっと下を向いていた。私はここにいる三人はみな無の深淵の上に壊れやすい仮小屋を建てて住んでいる人間たちなのだと感じた。

私は端唄や小唄を聞くと全人格を根柢から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。肉声で聴く場合には色々の煩わしさが伴ってかえって心の沈潜が妨げられることがあるが、レコードは旋律だけの純粋な領域をつくってくれるのでその中へ魂が丸裸で飛び込むことができる。私は端唄や小唄を聴いていると、自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。ただ情感の世界にだけ住みたいという気持になる。

「どうせこの世は水の流れか空ゆく雲か……」

Avalanche, veux-tu m'emporter dans ta chute ?

〔雪崩よ、汝が落下の裡に我を連れよかし〕

完

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