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TORENDIA

桃のある風景

本文約2,200字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

東京の郊外に住む娘は、言葉にできない渇きと焦燥感に苛まれていた。母の助言も虚しく、満たされない思いを抱えたまま、彼女は川の向こうに写生に来る美少年を後に残し、桃林へと足を踏み入れる。満開の桃の花が咲き誇る湿った空間で、彼女は五感が交融する恍惚とした世界に身を浸し、自己の特異な感覚と対峙する。本書は、青春期の痛切な渇望と、のちに芸術との遭遇を通じて自身の生を肯定するに至るまでの心の軌跡を綴る。

岡本かの子

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🎧 桃のある風景 / 朗読音声: VOICEVOX:青山龍星

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食欲でもないし、情欲でもない。肉体的とも精神的とも分野をつき止めにくいあこがれが、低気圧の渦のように、自分の喉頭のうしろの辺に鬱して来て、しっきりなしに自分に渇きを覚えさせた。私は娘で、東京端れの親の家の茶室作りの中二階に住んでいた頃である。私は赤い帯を、こま結びにしたまま寝たり起きたりして、この不満が何処から来たものか、どうしたら癒されるかと、うつらうつら持て扱っていた。

人が、もしこれを性の欲望に関する変態のものだったろうと言うなら、或はそうかも知れないと答えよう。丁度、年頃もその説を当嵌めるに妥当である。しかし、私はそう答えながら、ものごとを片付けるなら一番あとにして下さいと頼む。それほど私には、片付けられるまでの途中の肌質のこまかい悩ましさが懐かしく大事なのだから。

母は単純に病気だということに決めてしまって、私の変った症状に興味を持って介抱した。「お欠餅を焼いて、熱い香煎のお湯へ入れてあげるから、それを食べてご覧よ。きっと、そこへしこってる気持がほごれるよ。」「沈丁花の花の干したのをお風呂へ入れてあげるから入りなさい。そりゃいい匂いで気が散じるから。」母は話さなかったが、恐らく母が娘時代に罹った気鬱症には、これ等が利いたのであろう。

色、聞、香、味、触の五感覚の中で、母は意識しないが、特に嗅覚を中心に味覚と触覚に彼女の気鬱症は喘きを持ったらしいことが、私に勧める食餌の種類で判った。私もそれを好まぬことはなかった。しかし、一度にもっと渾然として而も純粋で爽かな充足を欲した。「もっと、とっぷりと浸かるような飲ものはない?」「しとしとと、こう手で触れるような音曲が聴き度いなあ。」母は遂々、匙を投げた。

「男持ちの蝙蝠傘を出して下さい。」「草履を出して下さい。」「河を渡って桃を見に行くから。」私は必ずしも、男性に餓えているというわけではなかった。渡しを渡った向岸の茶店の傍にはこの頃毎日のように街の中心から私を尋ねて来る途中、画架を立てて少時、河岸の写生をしている画学生がいる。この美少年は不良を衒っているが根が都会っ子のお人好しだった。

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