氷花
本文約13,100字 ・ 読了時間 約27分
あらすじ(AIが作成しました)
原民喜が綴る本作は、原子爆弾の惨禍に見舞われた広島から東京へ戻り、廃墟と化した街で生活する「僕」の姿を描く。飢えや困窮に苦しみながら、原子爆弾による体験から人間への新たな憐憫と興味を抱いた彼は、街を行き交う人々の姿を観察する。やがて広島の家族を訪ねる旅に出た彼は、過酷な状況下でも逞しく生きようとする家族の姿を目にする。東京へ戻った後も寒さと孤独の中にある彼は、姪たちの姿に希望を見出しながら、戦後の焦土を生き抜く心情を内省的に綴る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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三畳足らずの板敷の部屋で、どうかすると息も窒がりさうになるのであつた。雨が降ると、隙間の多い硝子窓からしぶきが吹込むので、却つて落着かず、よく街を出歩いた。「僕をいれてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の眼にしみるのだ」――以前読んだ書物の言葉が今はそのまま彼の身についてゐるのだつた。有楽町駅のコンクリートの上に寝そべつてゐる女を見かけたことがある。乳飲児を抱へて、筵も何もない処で臆びれもせず虚空な眸を見ひらいてゐた。それは少し前まで普通な暮しをしてゐたことの分る顔だつた。さういふ顔が何といつても一番いけなかつた。朝、目が覚めると、彼の部屋の固い寝床は、そのまま放心状態で寝そべつてゐるコンクリートになつてゐる。はつとして彼は自分にむかつて叫ぶのであつた。「此処で死んではならない、今はまだ死んではならないぞ」だが、彼を支へてゐる二階の薄い一枚の板張は今にも墜落しさうだつたし、突然、木端微塵に飛散るものの幻影があつた……。
家の焼跡に建ててゐるバラツクももう殆ど落成しさうだ――。
広島からそんな便りを受取ると、彼は一度郷里へ行つてみたくなつた。今年の二月、彼は八幡村から広島の焼跡へ掘出しに行つたのだが、あの時の情景が思ひ出された。眼のとどく処には粗末な小屋が二つ三つあるばかりで焼跡の貌ばかりがほしいままに見渡せたが、彼は青い水を湛へてゐる庭の池の底を覗きながら、まだ八月六日の朝の不思議な瞬間のことを思ひ耽つてゐた。だが、長兄はせつせと瓦礫を拾つては外に放りながら、大工たちを指図してゐるのだつた。大工たちは焼残つた庭樹を焚いて、そのまはりで弁当を食べた。すると、すぐ近くに見える山脈に嶮しい翳りが拡がつて、粉雪がチラつきだした。彼が庭に埋めておいた木箱からは、黒い水に汚れた茶碗や皿が出て来た。それは彼が妻と死別れて、広島に戻る時まで旅先の家で使つてゐた品だつた。が、そんなものは差当つて何にもならなかつたので、彼は姉のところへ預けに行つた。