飢ゑ
本文約10,900字 ・ 読了時間 約22分
あらすじ(AIが作成しました)
広島での惨劇を生き延びた主人公は、ガラス張りの脆い家で細君との関係に息を潜め、極度の空腹と幻影に苛まれながら暮らす。主人の詩に自画像を見出し、かすかな連帯を感じつつも、日常の些細な音や隣人の気配に脅え、崩壊の予感と死の影が漂う室内で、罪人のような慎重さで息を潜めて生活する様子を描く。
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僕はこの部屋にゐると、まるで囚人のやうな気持にされる。四方の壁も天井もまつ白だし、すりガラスの回転式の小窓の隙間から見える外界も、何か脅威を含んでゐる。絶え間ない飢餓が感覚を鋭くさせるのか、ガラス一重と薄い板壁からなる、この部屋の構造が、外界の湿気や狂気を直接皮膚のやうに吸集するのか、――じつと坐つて考へ込むことは、大概こんなことだ。それにしても、何といふ低い天井で狭い小さな部屋なのだらう。僕の坐つてゐる板敷は、それがそのまま薄い一枚の天井となつてゐるので、ちよつと身動きしても階下の部屋に響く。そして、階下ではちよつとした気配にも耳を澄ませてゐるこの家の細君がゐるのだ。たとへば、僕が厠へ行くため、ドアをあけて細い階段の方へ出たとする。すると、この家の細君は素速く姿を消して次の間に隠れる。僕と顔を逢はすことを避けてゐるのだ。……僕はこの家の細君と口をきくことはまるで無いし、細君の弟が一人ゐるのだが、それとももう言葉を交はさなくなつていた。この家の主人は一月前に社用で何処か遠方へ行つてしまつた。僕はその主人が旅に出かける前、一度一緒に散歩したことがある。そのとき彼は、
「女房の奴、よほど恐つてゐる。俺ともう一ケ月も口をきかない」とぽつんと云つた。
「あ」といふやうな曖昧な頷き方を僕はした。この家にわだかまつてゐる幽暗なものに、それ以上触れるのは何だがおそろしかつたのだ。