本文へ移動
TORENDIA

死と愛と孤独

本文約710字 ・ 読了時間 約2分

あらすじ(AIが作成しました)

原子爆弾の惨劇を生き残った筆者は、その凄惨な光景を記録するために「夏の花」や「廃墟から」などの作品を執筆する。自身の体験や戦後の過酷な状況を綴る中で、過去の妻との記憶が文学の支えとなっていたと振り返る。死と愛と孤独という三つの言葉を自我像の根幹に据え、人間の苦悩や日々の惨劇と向き合いながら、文学のあり方を問い続ける姿を描き出す随筆。

原民喜

👁 1 ビュー
速度
🎧 死と愛と孤独 / 朗読音声: VOICEVOX:春日部つむぎ

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 1

原子爆弾の惨劇のなかに生き残つた私は、その時から私も、私の文学も、何ものかに激しく弾き出された。この眼で視た生々しい光景こそは死んでも描きとめておきたかつた。「夏の花」「廃墟から」など一連の作品で私はあの稀有の体験を記録した。

たしかに私は死の叫喚と混乱のなかから、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私が物凄い饉餓と窮乏に堪へ得たのも、一つにはこのためであつただらう。だが、戦後の狂瀾怒濤は轟々とこの身に打寄せ、今にも私を粉砕しようとする。「火の踵」「災厄の日」などで私はこのことを扱つた。

まさに私にとつて、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩――さういつたものが、今は烈しく私のなかで疼く。それらによく耐へ、それらを描いてゆくことが私にできるであらうか。

嘗て私は死と夢の念想にとらはれ幻想風な作品や幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。その後私は妻と死別れると、やがて広島の惨劇に遭つた。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支へてゐてくれたのは、あの妻の記憶であつたかもしれない。そのことも私は「忘れがたみ」として一冊は書き残したい。

そして私の文学が今後どのやうに変貌してゆくにしろ、私の自我像に題する言葉は、

死と愛と孤独

恐らくこの三つの言葉になるだらう。……十数年も着古した薄いオーバーのポケツトに両手を突込んで、九段の濠に添ふ夕暮の路を私はひとりとぼとぼ歩いてゐる。

完

原民喜の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本