マダム貞奴
本文約26,900字 ・ 読了時間 約54分
あらすじ(AIが作成しました)
女優の先駆者として海外にも名を馳せた川上貞奴の生涯と、その華やかな舞台の裏にある素顔や苦悩を綴る。新女優の祖である彼女の引退興行を機に、著者は対面を重ね、芳町での芸妓時代から亡夫川上音二郎との渡欧公演、そして晩年の静かな生活まで、波瀾万丈な歩みを描き出す。強さと繊細さを併せ持つ一人の女性が、人生のすべてを真剣に駆け抜けた軌跡を辿り、その光輝ある過去に敬意と惜別の念を捧げる。
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一
人一代の伝を委しく残そうとすれば誰人を伝しても一部の小冊は得られよう。ましてその閲歴は波瀾万丈、我国新女優の先駆者であり、泰西の劇団にもその名を輝かして来た、マダム貞奴を、細かに書いたらばどれほど大部の人間生活の縮図が見られるであろう。あたしは暇にあかしてそうして見たかった。彼女の日常起居、生れてからの一切を聴いて、それを忠実な自叙伝ふうな書き方にしてゆきたいと願った。
けれどもそれはまた一方には至難な事でもあった。芸術の徒とはいえ、彼女は人気を一番大切にと心がけている女優であり、またあまり過去の一切をあからさまにしたくない現在であるかも知れない。彼女の過去は亡夫川上音二郎と共に嘗めた辛酸であった。決して恥ずかしいことでも、打明けるに躊躇するにもおよばぬものと思うが、女の身として、もうすでに帝都隠退興行までしてしまったあととて、何分世話になっている福沢氏への遠慮なども考慮したかも知れないが、その前にも二、三度逢ったおり言ってみたが、微笑と軽いうなずきだけで、さて何日になっても日を定めて語ろうとした事のなかったのは、全くあの人にとっても遺憾なことであった。私は貞奴の女優隠退を表面だけ華やかなものにしないで、内容のあるものとして残しておく記念を求めたかった。そして自分勝手ではあるがわたしの一生の仕事の一つと思っている美人伝のためにも、またあの人のためにも集の一つを提供して、新女優の祖のために、特別に一冊を作りたいと思っていたが、その希望は実現されなかった。参考にしたいと思う種々の切抜き記事について、間違いはないかと聞直したのにも分明した返事は与えられなかったから、わたしは記憶を辿って書くよりほか仕方がなくなってしまった。それがため、女優第一人者を、誠意をもって誤謬なく書残しておこうとしたことが画餅になってしまったのを、大変残りおしく思う。
わたしの知人の一人はこういう事をいってくれた。