万葉集に現れた古代信仰
本文約5,800字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
万葉集において装飾品や美称として解釈されがちな「玉」を、古代人の信仰に基づき考察する。本来、霊魂(たま)の容器や貯蔵所としての意味を持つ玉が、なぜ海岸や鳥、狩猟といった題材とともに歌われるのかを論じる。また、枕辺に置かれた玉が霊魂の所在を示す「たまどこ」としての役割を担い、死者や旅行者、さらには親子の愛情表現の中に、霊魂を分割・授受する信仰がいかに反映されているかを解き明かす。
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万葉集に現れた古代信仰といふ題ですが、問題が広過ぎて、とりとめもない話になりさうです。それで極めて狭く限つて、只今はたまに関して話してみます。
玉といへば、光りかゞやく美しい装飾具としての、鉱石の類をお考へになるでせう。又、万葉集で「玉何」と修飾の言葉としてついてゐるのは、その美しさを讚美した言葉だ、とお考へになるでせうが、多くの場合、それは昔からの学者の間違ひの伝承です。
我々が、神道の認識を改めねばならない時に当つて、それと関係の深いたまについての考察に、一つの別の立場を作るのも、思索上のよい稽古になると思ひます。万葉集に、
むらさきの 粉滷の海にかづく鳥。玉かづきいでば、わが玉にせむ(三八七〇)
といふ歌があります。おなじ万葉集でも「寄物陳思」の歌は、概してつまらない歌が多いものですが、これなども文学的に言へば、大きに失望させられる歌です。併し、昔の歌は文学的な動機で作つた[#「作つた」は底本では「作った」]ものが少くて、もつと外の動機――ひつくるめて言へば、信仰的な動機――で作つてゐるのです。此歌の意味は「粉滷の海にもぐつて、餌をあさつてゐる鳥――その鳥が、潜つて玉を取り出して来たら、おれは、その玉を自分の玉にしようよ」といふので、誰が見ても、すぐ何かもつと奥の方の意味があり相な気がします。まづ極平凡に考へてみても、古代人の饗宴の歌だと言ふことは思ひ浮びます。