――私はその頃昼と夜の別々の心に生きていた。昼の私の生命は夜の方へ流れ込んでしまった。昼間は私にとって空虚な時間の連続にすぎなかった。其処には淡く煙った冬の日の明るみと、茫然とした意識と、だらけ切った世界とが、倦怠の存在を続けているばかりだった。然し夜になると私の心は鏡の面のように澄んでくる。其処に映ずる凡ての物象は溌溂たる生気に覚醒むる。そして凡てがある深い生命の世界から覗く眼となるのだ。堅い表皮が破れ輪廓が壊れて、魂が表わにじっと眼を見張っている。それらの魂が私の心の中に甦えってくる。私が自分の魂の窓を開いて、その奥の眼に見えない心の世界を見つむる時、大きい歓喜を私は感ずる。私はその世界の中心に、万有を愛する玉座に着いて、息を潜め思いを凝らしていたのである。
――夕食がすむと私はよく散歩に出かけた。
何時も空の色が黝紺に輝き、そして生物の眼のように光りつつうち震える無数の燈火が、列をなして街路の両側に流れる。アスファルトを鋪いた真直の通りを、多くの人が黙って通って行く。私が一人、鋭い意識と深い心とに醒めて歩く時、凡てが私の世界のうちに飛び込み、やがて漉されて私の後ろの闇にとり残されるのであった。
私はラクダの毛織の長いマントを着、大きい鳥打帽を眼深にかぶって、それから頸巻で顔の下半分を包んだ。その頬の感覚が、特殊な私の世界に肉感の温味を与えた。
帰りに私はよく一つのカフェーに立ち寄った。それは広い通りから私の家の在る狭い横町へ入ろうとする所に在った。
私はその前で一寸立ち止まる。そして軽く頭を左に傾げてみる。その時心にさす影が不安な感触を与えない時、私はそのまま扉を押して中に入るのである。
すぐ前に大きい長方形の卓子があり、左手の奥に円いのと四角いのと二つの小さい卓子が並んでいる。蘇鉄と寒梅と松との鉢植がそれらの上に置かれている。右手が勘定台で、その上の格子から女中の髪にした白い花の簪が見える。客が非常に少かった。私は室の奥に据えられた煖炉に火が焚かれたのを見たことがない。何時も女中が小さい瀬戸の火鉢を持って来てくれた。