TRENDIA CLASSIC

幻の彼方

豊島与志雄

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岡部順造は、喧嘩の余波で初めて秋子の姙娠を知った。

いつもの通り、何でもないことだったが、冗談半分に云い争ってるうちに、やたらに小憎らしくなってきて、拳固と肱とで秋子をこづき廻した揚句、ぷいと表へ飛び出してみたけれど、初夏の爽かな宵の空気に頭が落着くと、先刻からのことが馬鹿々々しくなり、秋子が可愛くなって、また家に帰ってきた。顔を膨らして長火鉢にしがみついてる彼女へ、変にむず痒いような心地で云いかけた。

「何をしてるんだい。」

「知りませんよ。」

つんと澄ました声だったが、もう刺を[#「刺を」は底本では「剌を」]含んではいなかった。

順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。

「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」

冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。

「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」

彼女は呼吸器が弱かった。肺尖加答児を病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。

「じゃあ熱でも出るのかい。」

「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」

空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どんと空中にはね上げられた心地がした。

「え、姙娠!」

「そうらしいわ。」

「いつから?」

彼女は何とも答えないで、じろりと彼の顔を見やった。もうずっと前からであること、確かであることを、その眼付が語った。気分が悪いと云ってぶらぶらしてたり、食慾が非常に減ったり、何事にも興味を失って苛立ったり、しきりに酸っぱいものを欲しがったりしたのは、考えてみると可なり以前のことだった。

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