幻の彼方
本文約41,800字 ・ 読了時間 約84分
あらすじ(AIが作成しました)
岡部順造は、妻秋子の妊娠を知り動揺する。妊娠中の秋子の体調悪化と、自身の抱く得体の知れない不安や悪夢に順造は翻弄される。秋子の死後、順造は遺された息子や新しく命を宿す女性の存在に直面し、死と生が交錯する中で混乱と葛藤を繰り返す。本作は、死の影に苛まれながらも生に執着し、日常の平穏を追い求める一人の男の心理と、生命の連鎖に対する複雑な感情を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
岡部順造は、喧嘩の余波で初めて秋子の姙娠を知った。
いつもの通り、何でもないことだったが、冗談半分に云い争ってるうちに、やたらに小憎らしくなってきて、拳固と肱とで秋子をこづき廻した揚句、ぷいと表へ飛び出してみたけれど、初夏の爽かな宵の空気に頭が落着くと、先刻からのことが馬鹿々々しくなり、秋子が可愛くなって、また家に帰ってきた。顔を膨らして長火鉢にしがみついてる彼女へ、変にむず痒いような心地で云いかけた。
「何をしてるんだい。」
「知りませんよ。」
つんと澄ました声だったが、もう刺を[#「刺を」は底本では「剌を」]含んではいなかった。
順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。
「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」
冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。
「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。」
彼女は呼吸器が弱かった。肺尖加答児を病んだこともあるそうだった。そのことだなと順造は思った。
「じゃあ熱でも出るのかい。」
「まあ、熱ですって!……姙娠して熱の出る人があるものですか。」
空嘯いたその調子と、尖らした口と、険を持たした眼付とから、順造はちぐはぐな印象を受けたが、次の瞬間に、言葉の意味がはっきり分ると、どんと空中にはね上げられた心地がした。
「え、姙娠!」
「そうらしいわ。」
「いつから?」
彼女は何とも答えないで、じろりと彼の顔を見やった。もうずっと前からであること、確かであることを、その眼付が語った。気分が悪いと云ってぶらぶらしてたり、食慾が非常に減ったり、何事にも興味を失って苛立ったり、しきりに酸っぱいものを欲しがったりしたのは、考えてみると可なり以前のことだった。