白日夢
本文約11,600字 ・ 読了時間 約24分
あらすじ(AIが作成しました)
新居へ移り住んだ男は、隣家と外観が全く同じであることに奇妙な親近感と不安を抱く。ある日、男は自分の家と間違えて隣家に上がり込んでしまう騒動を起こす。妻は隣家へ謝罪に向かい、隣人も同様に人違いの経験があることを知る。男は物質的にも精神的にも何にも持たない自身の生活を顧みて、家族と散歩に出る。しかし、穏やかな夜の帰路、男は虚無感に襲われ、家が消失することを願うような衝動に駆られる。
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晩春の頃だった。
私達――私と妻と男の児と女中との四人――は新らしい住居へ移転した。まだ道具もそう多くはなかったので、五六日で家の中は一通り片付いて、私はほっとした気持で、縁側に腰掛けて煙草を吹かしながら、庭の面をぼんやり眺めてみた。庭と云っても僅かに六七坪のものだったが、二三本の植込の木下に、鮮かな緑の雑草が、ぽつりぽつりと萠え出していた。それを見ていると、私の心は晴れやかになった。新らしい住居と共に新らしい幸福がやってくる、といったような思いが湧いてきた。そして向うの室にいた妻を呼びかけて、実際そう口に出してまで云った。
「ええ、」と妻は答えた、「今月からあなたの月給がふえるかも知れませんわ。」
「馬鹿!」
心持ち高い声で私は叱りつけたが、眼付で笑ってるのをどうすることも出来なかった。
暫くすると、此度は妻の方から云い出した。
「前のよりはいい家だけれど、欲を云えば、庭がも少し広くって、そして一軒建だと、ほんとにいいんですけれど……。」
「まあそれくらい我慢するさ。贅沢を云えばきりがないから。」
二階が六畳と三畳、階下が六畳二つ、それに二畳の玄関と三畳の女中室とがついていて、間取りもわりによく、たいして古汚くもなかったので、私達にはまあ相当な家だった。が実際の所、妻が云う通りに、往来から板塀で仕切られてる六七坪の庭が、何だか妙に窮屈だったし、それから殊に、隣りの家と棟続き壁一重越しに、全く同じ形に建てられてるのが、余りいい気持ではなかった。と云って、うっかり妻の言葉に賛成でもしようものなら、こんなちっぽけな借家住居をしなければならない自分の無能さを、改めて証拠立てることになるので、私はわざと空嘯いて、足ることを知る者は富めり、なんかと、自ら自分に云いきかしてやった。
そして私はいつしか、不満の点を忘れるともなく頭の外に逐い払って、毎日の勤めに出かけた。妻も其後、家に就ての不満を口にしなかった。そして私達の心は、また生活は、次第に新居へ馴染み落付いていった。
所が、越してきて二週間ばかりたった頃、或る晩、妻は妙なことを云い出した。