河野が八百円の金を無理算段して、吉岡の所へ返しに来たのは、何も、吉岡の死期が迫ってると信じて、今のうちに返済しておかなければ………とそういうつもりではないらしかった。河野の細君にはそういう気持が多少働いてたかも知れないが、河野自身には少しもそんなことはなかったらしい。後で河野は私へ向って云った。
「八百円の金を拵えるのに貧乏な僕は、ひどい無理算段をしたには違いない。然し僕は、吉岡がもう長くは生きないだろうなどと思って、今のうちに返済しておかなければ、永久に吉岡の好意から解き放される機会がないと、そんなつもりでは少しもなかったのだ。僕はただ、吉岡を安心させる………いや安心させるのとも違う……何と云ったらいいかなあ……兎に角、吉岡が僕達の生活を救ってくれた。そこで僕達はどうにか生きてきた、そして今では自分の腕で暮してゆけるようになってる、というその感謝の意を、あの八百円で病床の吉岡に知らしたかったのだ。僕のやり方もまずかったには違いないけれど、あんな風に誤解されようとは、夢にも思わなかったことだ。」
河野としてはそれが本当の所だろう。然し吉岡の方にだって、単に誤解というだけでは片付けられない、もっと複雑な気持が働いてたに違いない。
が、こんな風に説明したり註釈したのではきりがない。じかに事件だけを物語ることとしよう。裏面にいろんな事情や感情が絡んでいたかも知れないし、話の正鵠を失することがあるかも知れないが、私としてはただ、眼に触れ耳に触れたことだけを、そのまま物語るの外はない。考えてみれば、変な話ではあるが……。
一
河野が八百円はいっている洋封筒を懐にして訪れた時、吉岡はわりに元気な平静な気分でいた。今日は朝から血痰が一度も出ないし、熱もないようだから、よかったらゆっくり話していってくれ給え、などと云って、人なつっこい笑顔で河野を迎えた。河野は意外な気がした。その離れの十畳の病室へ通される前に、彼は敏子さんから注意されたのだった。