溺るるもの
本文約17,400字 ・ 読了時間 約35分
あらすじ(AIが作成しました)
図書館員の片岡正夫は、機械的な生活に疲弊し、自由を求めて退職する。偶然出会った視力の弱い女性に燐光のような魅力を感じた片岡は、彼女の元へ足繁く通い始める。かつての仕事先である図書館の閉塞感と、自身の新たな生活への不安を抱えながら、片岡は夜の街を彷徨う。やがて、片岡が夜の大川端でその女性と共にいる姿を目撃され、二人が河岸で寄り添い、動かなくなる様子が語り手によって不穏な予感とともに見つめられる。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一 或る図書館員の話
掘割の橋のたもとで、いつも自動車を乗り捨てた。
眼の届く限り真直な疏水堀で、両岸に道が通じ、所々に橋があって、黒ずんだ木の欄干が水の上に重り合って見える。右側は大きな陰欝な工場、左側は小さな粗末な軒並……。その軒並の彼方、ぼうっとして明るみの底、入り組んだ小路の奥に、燐光を放ってる一点があった――彼女がいた。
燐光……そんな風に私は彼女を感じた。
彼女は眼が悪かった。軽い斜視で、その上視力が鈍っていた。十六七の時に急に悪くなったのだという。兄は盲目だそうだ。遺伝性黴毒からきた黒内障ではないかと私は思った。が彼女は角膜炎だと云った。そして近眼で乱視だと……。近視十五度の私の眼鏡をかけて、よく見えるとて喜んだ。
「眼鏡を一つ持ってたけれど、転んで壊しちゃって……それきりよ。眼医者に行くと、長く通わなけりゃならないから……。」
その眼が、黒目も白眼も美しかった。眉墨で刷いた細い長い眉の下、くっきりとした二重眼瞼の方へ黒目を寄せて上目がちに、鏡の中を覗きこみながら、寝乱れた鬢の毛をかき上げてる、軽い斜視の乏しい視力の眼付と真白な細面の顔とを、傍から鏡の中に眺めるのを私は好んだ。
「また……いやよ。悪口云おうと思って……。」
鏡台を押しやって彼女は笑った。
淋しい静かな笑いを彼女は持っていた。薄い眉と二重眼瞼と細そり高い鼻とはそのままに、少しつき出し加減の薄い唇を中心としてる線のなだらかな細面の下半分に浮べる、その淋しい静かな笑いには、気心を置かない時には、或る哀切な弱々しさが加わり、会った初めに、「いらっしゃい。」と形ばかりの挨拶の後の時には、或る一本気な強さが加わった。
後になって、その笑みが彼女の眼にまで拡がってきた時、私は何だかそれに応じて微笑めないようなものを感じた。
そうした彼女の方へ足繁く通いながら、掘割の縁で、私は幾度か夢想に沈んだ。