TRENDIA CLASSIC

千代次の驚き

豊島与志雄

1 / 14

お父さん、御免なさい。あたし、死ぬつもりなんかちっともありませんでした。ただ、びっくりしたんです。ほんとに、心の底まで、びっくりしました。

村尾さんが、まさか……。今になっても、まだ、腑におちません。随分前からのお馴染で、気質もよく分ってるつもりでしたのに……。少し変だと思ったのは、つい近頃のことで、それも、実は、あたしの方が変だったのかも知れません。お前さんこの頃どうかしてるね、とねえさんに云われたことがありました。あたしただ笑ってたけれど、自分でも、どうかしてるような気がしていました。でも、お父さんの教えは、ちっとも忘れたことはありません。芸者をしてる以上は、男に惚れてはいけない、たとえ旦那にも、岡惚と名のつく人にも、惚れてはいけない、とそうお父さんは、くれぐれも仰言ったでしょう。おかしなお父さんだと、はじめは思いましたが、だんだんたつうちに、真実のことを云って下さったんだと、分ってきました。こう云っちゃなんだけれど、お父さん、むかしは随分道楽なすったんでしょう。だから、お父さんの仰言ることは、通り一遍の理屈じゃなく、もとでのかかった、すっかり入れあげた、底まで見とおした、真実のことだと、あたしほんとうに感心しました。男という男は、みんな、うわべはいろいろだけれど、心底は同じものだと、あたしにも分ってきました。だからあたし、どんな人も、ほんとに好きにはならないと、そう決心していました。村尾さんだって、そうです。決して好きになったわけじゃありません。ただ少し、気懸りにはなっていましたが……。

それも、近い頃のことです。あの方のお母さんが亡くなられて、百ヶ日もたってからだったでしょう、急に、しげしげいらっしゃるようになり、しまいには、いつづけなさることさえありました。

「僕はどうせ、病気で死にかかって、危く拾いものをした命だし、母親も見送って、気にかかる者もないし、これからの生涯をどんなにぞんざいに使おうとかまわない。実にさっぱりした気持だ。」

そうかと思うと、また――

「ねえ、千代ちゃん、もしもの時には一緒に死んでくれないか。君と一緒なら、僕はいつでも死ぬ用意をしてるよ。」

豊島与志雄の他の作品