潮風
本文約11,900字 ・ 読了時間 約24分
あらすじ(AIが作成しました)
小料理屋を営む芳枝と、愛し合う片野は、愛の遊戯として嫉妬を繰り返しながらも、将来への不安から金銭に執着する。ある晩、酔った片野が店を訪れ、二人が揉める中、店で働く佐代子が翻弄されていく。やがて、芳枝と片野の不穏な空気が店を包む中、佐代子が内に秘めていた荒々しさを露わにし、芳枝との間で偶発的な出来事が起こる。この悲劇的な一夜とそれぞれの不安定な心理を描く物語である。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
棚の上に、支那の陶器の花瓶があった。いつも使われることがないので、俺はその中に綿をもちこんで、安楽な居場所を拵えておいた。その晩も、夜遅く、その中にはいってうとうとしていると、急に何か物音や人声がしたので、花瓶の口からのび上って、見ると、片野さんがとびこんできてるのだった。
片野さんは酔っていた。一つ所に立ってることが出来ず、それかって椅子に掛けるのも面倒くさいらしく、ストーヴのまわりをふらふら廻っていた。
「今迄、どこを歩いてらしたの。」と芳枝さんが、きつい眼付をしてみせた。
「今迄? 何をねぼけてるんです。歩いてるのは今だけだ。第一、どこか、ぬれてますか。さあ、ぬれてるかぬれてないか、歩いてた証拠があるかないか、見てごらんなさい。だが、実は歩きたかった。霧のような雨が降っていて、いい晩ですよ。そいつを、むりに自動車にのっけるもんだから……。意趣晴らしだ、一杯のまして下さい。」
「だめだめ、もう何時だと思って?」
「何時だって……。一体、女にとっては、何よりもかによりも、時間が一番大切らしい。それが、癪にさわることの一つ。それから……。」
「それから?」
「とにかく、一本だけ。」
そして片野さんは、両の踵で器用に靴をぬいで、膝頭で小座敷の方へ上っていった。表からはいってくると、小椅子をそろえた卓子が五つ並んでる土間、それに続いて四畳半の座敷、それだけの店なのである。
芳枝さんは、向うにぼんやり立ってる佐代子に用を云いつけておいて、小皿の膳を運んできて、瓦斯ストーヴに火をつけた。がその方へは手もかざさず、じっと相手の顔に眼を注いだ。
「どうしたの?」
片野さんは、へんに神妙に彼女の顔を見返した。
「もう一時よ。」
「すみません。」そして片野さんはにやりと笑った。
「ばかね。あれから、家に帰らなかったんでしょう。」
片野さんはうなずいたが、こんどは眼付で笑っていた。