TRENDIA CLASSIC

霧の中

豊島与志雄

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南正夫は、もう何もすることがなかった。無理を云って山の避暑地に九月半ばまで居残ったが、いずれは東京の家に、そして学校に、戻って行かなければならないのだ。なんだか変につまらない。ただ一人で、丘の斜面の草原の上に寝ころんでぼんやりしていると、いろいろなことが頭に浮んでくる。大空が、目のまわるほど深くて青い。白い雲が流れる。大気がひえびえとしている。遠くの山々が、ひっそりと、薄っペらで、紙細工のようだ。どこかで虫が鳴いている……。

ふいに、耳のすぐそばで、然し遠くから来るような調子で、正夫を呼ぶ声がする。ほう、「彼奴」だ。久しぶりにひょっこり出て来たのだ。小さな、すばしこい、怪しげな、とぼけた、おかしな奴で、人に話したって本当にされそうもない。名前もない奴なので、正夫はただチビと呼んでいる。もう馴れっこになっているし、一種の親しみさえ持っているので、別に驚きはしない。それに丁度、神話のことを考えていたところだ。神々や巨人や怪物や、いろんな妖精。チビだって、謂わば、神話の中のような者だ。

「久しぶりだね。」とチビは云った。

「うん。」と正夫は答えた。

「何をしてるんだい。」

「何にもしてやしないよ。」

「じゃあ、退屈だろう。」

「退屈だから、何にもしていないんだよ。」

「何にもしないから、退屈するんだ。」

「ちがうよ。退屈だから何にもしないのさ。」

「同じじゃないか。」

「ちがうよ。」

チビは耳をかいた。困った時の癖だ。そして暫く黙っていたが、正夫の目の中を覗きこんできた。

「じゃあ、何を考えていたんだい。」

「いろんなことだよ。」

「どんなこと?」

「神だの、巨人だの、人魚だの……。」

「ああ、大昔の話か。あんなこと、みんな嘘っぱちだろう。」

「嘘じゃないよ。」

「本当のことだと思ってるのか。」

「本当でもないさ。」

「そんなら嘘じゃないか。」

「本当でも嘘でも、どっちでもないんだ。」

「では何だい。」

「何だか知らないが、本当でも嘘でも、どっちでもないようなものが、あるんだよ。君には分らないだけだ。」

チビはまた耳をかいた。

「今だってあるよ。」

「何が?」

「そんなことが。こないだも……。」

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