本文へ移動
TORENDIA

或る夜の武田麟太郎

本文約3,500字 ・ 読了時間 約7分

あらすじ(AIが作成しました)

日華事変前、馬肉屋の小林で深夜に偶然顔を合わせた著者と武田麟太郎は、互いに一人で酒を酌み交わす間柄となる。ある夜、らっきょうを食べる著者の様子をきっかけに二人は作家論を論じ、率直に語り合う貴重な時間を過ごす。かつては独立独歩で他人に頓着しなかった武田が、その晩に示した珍しい心遣いを回想しながら、著者は突然の訃報に接した武田との交流や、彼の人となりと文学に対する真摯な姿勢を綴る。

豊島与志雄

速度
🎧 或る夜の武田麟太郎 / 朗読音声: VOICEVOX:九州そら

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 5

その昔、といっても日華事変前頃まで、所謂土手の小林は、吾々市井の酒飲みにとって、楽しい場所だった。

この家は終夜営業していた。この点では品川の三徳と双璧だが、三徳の方は深夜になると戸を閉めるのに反し、小林の方は夜通し表戸を開け放しなのである。いくら顔馴染みだからといって、表戸が閉ってるのと開いてるのとでは、大いに違う。開け放してあれば、ぬーっと、或はのっそりと、はいりこむことが出来る。

小林は馬肉屋なのである。酔っ払ってから馬肉などと、眉をひそめてはいけない。深夜、二時三時頃ともなれば、殆んど夕食を摂っていない酒飲みの腹は、さすがに空いてくる。馬肉の一鍋ぐらいは適度に納まる。味噌煮だから、酒と莨に荒れぎみの咽喉や胃袋には、味噌汁と同様の効果がある。馬肉は上肉と下肉とでは大変な違いで、上等なヒレともなれば牛肉にも劣らない。それを空腹に納めて、あとはただ猪口をちびりちびりと、煮えるに任せた鍋をぼんやり眺めているのも、達人の域にあってはまた風流なものである。

小林では殊に酒がよかった。何という酒か、その名を遂に聞いたことはなかったが、口には実に味よく、そして甚だ水っぽく稀薄なのである。すぐ近くが吉原の大門で、そこを出入りする人には気の毒であるが、この大門に用のない吾々にとっては、水っぽくて美味な酒が有難かった。もっとも、小林でいつもそういう酒を用いていたかどうかは分らない。海千河千といった気の利いた女中がいたので、酔っ払いの客にだけ特に出してくれたのかも知れない。その酒を飲んでいると、酔いざめの水の作用までしてくれて、東が白む頃までには、全くお誂え向きの程度にまで酔いがさめてくる。少くとも、外が明けるまでうまく飲み通せるのである。

豊島与志雄の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本