杭州西湖のなかほどに、一隻の画舫が浮んでいました。三月中旬のことで、湖岸の楊柳はもうそろそろ柔かな若葉をつづりかけていましたが、湖の水はまだ冷たく、舟遊びには早い季節でありました。通りかかりの漫遊客が、季節かまわず舟を出すことはよくありました。けれども、いま、この画舫は、そうした旅客のものではなく、名所を廻り歩くこともせず、長い間湖心にただよっていた後、東の岸へ戻って来ました。
船着場へつきますと、画舫から、陳家の子供である姉弟の瑞華と文とが、元気よく飛び出してきました。次に、上海から此処の別荘に来てる張金田が、肥え太った姿を現わしました。そしてあとがちょっととだえました。張金田は振向いて、舟の屋形の下を覗きこみました。
舟の奥から、静かな声がしました。
「ちょっと、片づけものをしまして、じきに参ります。子供たちへお約束の品を買って頂いてますうちに、お先に宅へ戻っておりますから……。」
そして張金田と二人の子供とは、町の方へなにか買物にやって行きました。舟には、子供たちの母親の陳秀梅と女中の※[#「槿のつくり」、84-下-2]香とが残りました。
陳秀梅は席にじっと落着いたまま、火桶に片手をかざして、船頭の方を眺めました。二十七八歳の青年で、画舫の水夫としての普通の身装ですが、眉秀でて口元が緊り、頼もしい精神力を偲ばせる顔立でありました。
「あんたが、李景雲さんですか。」と秀梅はいいました。
突然、丁寧に呼びかけられて、青年は棒のようにつっ立ちました。
「あんたのことは、うちの徐康から聞いて、よく知っています。もとは立派な家柄だったとか、そして、室にはいろいろな書物が一杯並んでおり、頭にはいろいろな知識を一杯つめこんでいなさるとか、聞きました。だけど……。」
秀梅の頬からやさしい微笑が消えて、真面目な色が眉根に寄りました。
「そういうことよりも、わたしはなんだか、あんたをじかに、よく識っているように思えますが……。」
「私もよく存じあげております。」と李景雲はいって、なぜか、顔を赤くしました。そしていい添えました。「陳家の奥様のこと、よく存じあげております。」