本文へ移動
TORENDIA

波多野邸

本文約22,100字 ・ 読了時間 約45分

あらすじ(AIが作成しました)

戦後大陸から帰国した波多野洋介は、高石老人の計らいで亡父の邸宅に設けられた文化研究所に出入りする。そこには様々な人々が集い、議論を交わしていた。やがて洋介は、周囲の人間が小さな欲求にしがみつき大事なものを喪失していく日本の社会状況に息苦しさを覚え、それまで曖昧にぼかしていた自らの意思を露わにし、公然と戦う意志を告げる。日常の影で変貌を遂げる男の不可解な内面と、戦後の混迷した社会を描く作品である。

豊島与志雄

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 28

波多野洋介が大陸から帰って来たのは、終戦後、年を越して、四月の初めだった。戦時中の三年間、彼地で彼が何をしていたかは、明かでない。居所も転々していた。軍の特務機関だの、情報部面だの、対重慶工作だの、いろいろなことに関係していたらしく言われているが、本人はただ、あちこち見物して歩いたと笑っている。実際のところ、本人の言葉が最も真実に近いものであろう。

彼は事実をあまり語らなかった。意見を殆んど述べなかった。曖昧な微笑と掴みどころのない言葉とで、すべてをぼかしてしまった。故意にそうするのではなく、自然にそうなるかのようだ。大体に於て、所謂大陸ボケかとも思えるところがあった。あの人は少しぼんやりしている、というのが一般の印象だった。すくすくと伸びた体躯、肉附も普通で健康そうだったが、陽やけした顔の表情に、紙を一枚かぶせたような趣きがあった。然し、注意して眺めると、その重たそうな瞼の奥から、時折、両の眼があらわに露出してきて、表情を覆うている紙にそこだけ穴があくことがあった。

豊島与志雄の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本