早春
本文約9,400字 ・ 読了時間 約19分
あらすじ(AIが作成しました)
街角の煮込み屋で偶然出会った中学教師・北川辰治と「おれ」は、魚を届ける縁で親しくなる。ある日、北川の自宅で梅の植え替えを手伝った「おれ」は、そこで居合わせた青年の態度に不快感を覚える北川と妹の梅子から、植えたばかりの梅の木を別の場所へ移してほしいと頼まれる。病床にある梅子の美しさと兄妹の心境に触れ、理由も分からぬまま胸を詰まらせた「おれ」は、その梅の木を自ら引き取ることを決意する。
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もともと、おれは北川さんとは何の縁故もない。街で偶然出逢っただけのことだ。
牛の煮込み……といっても、おもに豚の腸や胃や食道、特別には肝臓と心臓、そのこま切れを竹串にさして、鉄鍋でぐらぐら味噌煮にしたものだが、その鍋をかこんでアルコールを飲むという、この頃たいへんはやっている安直な飲み屋が、近くの街角に一つあった。
おれも時々鍋をつっつきに寄った。気むずかしそうな大人たちがいない場合は、コップ一二杯飲むこともあった。そこで、初めて北川さんに逢った。帽子はかぶらず、マントにちび下駄の姿で、髪を短かめに刈った頭がへんに大きく見え、浅黒くて艶のわるい顔は善良そうだった。年は三十五六で、飲みっぷりがよかった。鍋の物はあまり食べず、焼酎……つまりアルコールの薄めたのを、二杯ほどあおって、あとは清酒のお燗したのをうまそうに飲んだ。飲みながら店の親爺と話をした。
「身投げのことを、絵や文章には、真逆様に飛びこむように書いてあるが、あれは嘘だよ。男でも女でも、逆様になんかなかなか飛びこみはしない。せいぜい横っ倒しで、たいていは立ったままの姿勢さ。水泳の飛び込みとは違うからね。やっぱり怖いんだな。或る時、寒い所で、女が身投げをしたことがあった。飛びこんだのが池で、氷がはりつめてたもんだから、両足は水にはいったが、大きな尻が氷につかえて、どうにも身動きが出来ず、もがいてるところを救いあげられた、という話があるよ。」
「へえー、ほんとですか。」
「ああ、実話だよ。」
そんな話をする彼を、おれは、文学者か画家かでもあろうと思った。――ところが違っていた。中学校の先生だった。もっとも、ちょっとした読物ぐらいは書いていたんだが。
飲んでしまうと、御馳走さんと大きな声で言って、出て行った。
おれは親爺に聞いた。
「あの人、金を払わないね。」
「今日は持っていないらしいよ。またこんど、と小さい声で言ったろう。持ってる時に、いっしょに払うよ。」
「それはいいなあ。おれもそうしよう。」
「お前なんか、だめだ。あぶなくってね。」