自由人
本文約68,600字 ・ 読了時間 約138分
あらすじ(AIが作成しました)
縁談をめぐる父親との対話や結婚という枠組みへの閉塞感に悩む主人公は、ある人物が原稿用紙に書き残した不可解な文句に心を乱される。日常の中で父や周囲の人々との交流を重ねる一方、家庭内の冷え切った空気や父の不可解な行動に戸惑いを感じていく。周囲の期待や縁談という社会的な枠組みと、自身の抱く名状しがたい孤独や葛藤の狭間で揺れ動く内面を静かに描く。物語は、日常の断片が重なり合う中で進行する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
悲しみにこそ生きむ
楽しさにこそ死なむ
この二つの文句が、どうしてこんなにわたしの心を乱すのであろうか。二つが妖しく絡みあい、わたしの胸に忍びこみ、わたしの心を緊めつけて……誘うのである。いずこへ誘うのか。何の誘惑なのか。
その文句を、わたしは思い違いしてるのではあるまいか、そんな気持ちがふっと湧くこともある。だけど、いいえ、わたしの思い違いではない。たしかにそうなのだ。あの人は、机の上の原稿用紙に、鉛筆でいたずら書きをしていた。鳶が鳴いていたので、片仮名で、ピーとか、ヒョロとか、ヒョロヒョロとか、そんなのが幾つも書き散らされてるうちに、とつぜん、悲しみにこそ、が二度つづいて、生きむ、生きむ、生きむ、と三度かさなり、それから、楽しさにこそ、が一度、そして、死なむ、死なむ、と二度で終った。たしかに、悲しみに死ぬるのでもなく、楽しさに生きるのでもない。いいえ、そんなこととは全く違う。
悲しみにこそ生きむ
楽しさにこそ死なむ
わたしにはよく理解できないけれど、感じだけは分る。二つ別々なものではなくて、一緒のものなのだ。一つだけでは意味をなさない。ヘルメスの杖についてる、二つの翼……二つの蛇……。あの人にとって、それは、翼なのかしら、蛇なのかしら。どちらだって、つまりは、ヘルメスにとって同じなように、あの人にとっても同じなわけだ。けれども、わたしとしては……いえ、もうどちらでもよい。
あれを、あの人は明らかに、わたしが見てることを知っていて、わたしに見せるために書いた。わたしは見た。それをあの人は知っている。けれど、わたしは何とも言わなかった。あの人も何とも言わなかった。
直截に、簡明に、ぶしつけに、いろんなことを話せないのが、淋しい。お互に、愛し合ってることが分っておりながら、なぜそうなのであろうか。