本文へ移動
TORENDIA

山上湖

本文約10,800字 ・ 読了時間 約22分

あらすじ(AIが作成しました)

十月の山上湖畔に身を寄せた美津子と平田は、家庭の事情や経済的困窮から死をも覚悟した逃避行を続けている。月夜の湖畔で二人は過去の経緯や互いの精神的な齟齬を露わにし、美津子は唯物論者として無関心に振る舞う平田に失望を募らせる。ついに死を求め湖水へ歩み入る美津子を平田が引き止めるが、その行為もまた彼女には無感動で分別くさいものと映る。二人は互いへの疑念と倦怠を抱えたまま、冷めきった関係の中で湖畔を後にする。

豊島与志雄

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 13

十月の半ばをちょっと過ぎたばかりで、湖水をかこむ彼方の山々の峯には、仄白く見えるほどに雪が降った。翌日からは南の風で少し温く、空晴れて、宵に大きな月がでた。

「まあ、きれいな月……。外に出てみよう。」

誘うともなく、誘わぬともなく、言いすてて、私は外套をまとい、スカーフを首に巻きつけた。

「ちょっと待って。これで大丈夫かな。」

寒くはないかという意味なのだ。シャツの上に湯上りと丹前を重ねただけの平田は、あわてて、ジャケツを着、帯をしめ直し、合のオーバアを肩にひっかけて、私のあとについて来た。

そんなこと、なんでもないことなのだが、今では、私の気にさわるのだ。月夜の湖畔のそぞろ歩き、それも二度と出来るかどうか分らない私達ゆえ、出かける時に、それにふさわしいしっとりした言葉のやりとりが、感情の照応が、あってもよい筈だった。私の方もわるいけれど、平田の方がなおわるい。外に出てみようと言う私へ、ただ犬のようについて来るだけではないか。第一、身なりが見っともない。私はお風呂の後でも、寝るまでは服装をきちんと整えているのに、平田の方は、この旅館に着いたその日から、湯上りと丹前姿で、あぐらをかいて酒を飲んでいる。落着いていると言えばそれまでだが、思いつめているのとは違うようだ。追手が来たら、のこのこ連れ戻されるだろうし、さあこれからすぐに、と私が言ったら、殆んど無関心に、つまり無意味に、一緒に死んでくれるかも知れない。そんなのは、思いつめてるんじゃない。思いつめてるのだったら、積極的に、私を死へ誘う筈だ。

いいえ、私はもう一緒には死なない。その代り、月夜の湖畔の散歩には、連れてってあげる。

停電のあとで電燈がついたような、ぱっと明るい月夜だった。旅館の前は広場で、この山間を走ってるバスの事務所があるが、それはもう閉め切ってあり、旅館は一つだけで他に人家もなく、人の姿は全然見えず、暗い木立の向うに、湖水がきらきら光っていた。

「わりに暖いね。」

丹前の肩からずり落ちそうなオーバアの、胸の釦を一つ平田はかけている。物を考える人の姿じゃない。

豊島与志雄の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本