安吾巷談
本文約9,000字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
筆者は日劇小劇場、新宿セントラル、浅草小劇場を巡り、ストリップショーの現状を綴る。生の裸体を舞台へさらけ出すだけの見世物は、芸を伴わなければ食傷するばかりの因果物であると指摘する。観客の目の前で裸体となる義務的な構成は、色気や美を生み出さない。演者が舞台上でいかに一人の女として誕生し、芸の力で魅力を表現できるかが問われる。裸体の提示は美の対象ではなく、表現としての芸の必要性を論じる。
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私はストリップを見たのは今度がはじめてだ。ずいぶん手おくれであるが、今まで見る気持がうごかなかったから仕方がない。
悪日であった。翌日の新聞の報ずるところによると、本年最高、三十度という。むしあつい曇天なのだ。汗にまみれてハダカの女の子を睨んでいるのはつらい。しかし、先方も商売。又、私も商売。
日劇小劇場、新宿セントラル、浅草小劇場と三つ見てまわって、一番驚いたのは何かというと、どの小屋も女のお客さんが御一方もいらッしゃらんということであった。完全にいなかった。一人も。
裸体画というものがあって、女の裸体は美の普遍的な対象だと思いこんでいたせいで、ストリップに女のお客さんもたくさん居るだろうと軽く考えていたのがカンちがいというわけだ。
エカキさん方がすばらしいモデル女だというオッパイ小僧もセントラルにでていたが、美しくなかった。なるほど前から見ると、胸が全部オッパイだが、横から見ると、肩からグッとビラミッド型に隆起しているわけではなくて、肩から垂直にペシャンコである。お乳だけふくらんでいて、美しい曲線は見られない。
画家はこのモデルから自分の独特の曲線を感じ得るのかも知れないが、その人自体は美の対象ではないようだ。
裸体の停止した美しさは裸体写真などの場合などは有りうるが、舞台にはない。舞台では動きの美しさが全部で、要するに踊りがヘタならダメなのである。昔の場末の小屋のショオには大根足の女の子が足をあげて手を上げたり下げたりするだけの無様なものであったが、それにくらべると、今のストリップは踊りも体をなしているし、そろって裸体が美しくなってることは確かであるが、裸体美というものはそう感じられない。
むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。
ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。