夜見の巻
本文約10,500字 ・ 読了時間 約22分
あらすじ(AIが作成しました)
鬼涙村の酒造所に滞在し、膜翅類の採集に耽る私は、気難しい老荷馬ゼーロンを連れて柳村へ向かう。乗り手に従わず傲慢な態度をとるゼーロンに苛立ちを抱きつつも、周囲の手前、愛馬として振る舞わざるを得ない。ある時、突如として村を襲ったスズメ蜂の騒動に巻き込まれ、混乱を経て深夜の厩で初めて馬と向き合う。孤独な二つの存在が夜の静寂の中で予期せぬ親密さを育み、不思議な恍惚と充足感に包まれるまでの情景を描く。
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一
私は夏の中頃から、鬼涙村の宇土酒造所に客となつて膜翅類の採集に耽つてゐた。私は碌々他人と口を利くこともなく、それで誰かゞ私の無愛想な顔を蜂のやうだと嘲つたが、全く私は眼玉ばかりをぎろ/\させて口を突らせ、蜂のやうに痩せて、あたりの野山を飛びまはつてゐた。
或る朝私は靄の深い時刻に起き出て、先達うちから山向うの柳村の鎮守社の境内に半鐘型のスヾメ蜂の巣を発見しておいたので、その後の状態を観察しようとして面紗や皮手袋を用意して、酒倉の脇を抜けようすると、馬に荷を積んでゐたひとりの若者が、これから山向うの竜巻村まで赴くのであるが、帰途に空樽をつけて来るためにゼーロンを空身で伴れて行くから、途中まで乗つて行かないかと云つた。ゼーロンとは私が五六年も前に抽象的に名づけた酒倉の老荷馬であるが、そして私の空想ではドンキホーテのロシナンテにも匹敵すべき私の愛馬であつたが、実際では少しも私に慣れてゐなかつた。私はそれに勝手にそんな名前をつけ、永年の間夢に慈しみを寄せつゞけてゐたせゐか、目のあたりでは一向私に親しみもせず、加けに臆病馬で、虻が一尾腹にとまつても激しく全身を震はせて飛びあがつたり、牝馬に出遇ふと己れの廃齢たるも打ち忘れて機関車のやうに猛り立つたりする態に接すると、悲しみともつかぬ憎念に炎ゆるのであつた。だが永い間の私の「ゼーロン」に寄せる感傷性は、やがて人々の間でさへ認められて稍ともすると彼等は、その鞍を私にすゝめるのが習慣だつた。
私は、内心可成りの迷惑を感じて、
「いゝえ、要りませんよ、たくさんだよ。」
と手を振つたが、若者は、それを、私がすゝめられる酒を辞退してゐるものと感違ひして、馬の方はもう問題の他にして、
「竜巻の権五郎へ持つて行く新酒なんだから、ともかくまあ出がけの祝ひをつけてお呉んなさいな。」