TRENDIA CLASSIC

湖水と彼等

豊島与志雄

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もう長い間の旅である――と、またもふと彼女は思う、四十年の過去をふり返って見ると茫として眼がかすむ。

顔を上げれば、向うまで深く湛えた湖水の面と青く研ぎ澄された空との間に、大きい銀杏の木が淋しく頼り無い郷愁を誘っている。知らない間に一日一日と黄色い葉が散ってゆく、そして今では最早なかば裸の姿も見せている。霜に痛んだ葉の数が次第に少くなることは、やがてこの湖畔の茶店を訪れる旅の客が少くなることであった。

冷かな秋の日の午後、とりとめもなく彼女が斯ういう思いに耽っている時、一人の青年が来て水際に出した腰掛の上に休んだ。

茶と菓子とを運んだ婢に昼食のあと片付けを云いつけて、彼女はまた漠然たる思いの影を追った。遠くより来る哀悠が湖水の面にひたひたと漣を立てている。で側の小さい聖書をとり上げてみた。見るともなしにちらと眼をやると、青年はじっと湖水の面を見つめている。

――われ爾が冷かにもあらず熱くもあらざることを爾の行為に由りて知れり我なんじが冷かなるか或は熱からんことを願う

こんな句が彼女の心に留った。一筋の雲影もない澄んだ空は、黄色を帯びた光線を深く一杯に含んでいた。其処から何物か震えつつ胸に伝わるものがあった。それは明瞭と知ることが出来なかった。心持ち首を傾げて、彼女はまた書物の上に眼を落した。

――視よ我戸の外に立ちて叩くもしわが声を聞きて戸を開く者あらば我その人の所に就らん而して我はその人と偕にその人は我と偕に食せん

その時ふっと物影が彼女の顔を横った。かの青年がやって来てじっと彼女を見ているのであった。軽く咎むるような心地の眼付でその顔を見返すと青年はこう云った。

「絵葉書はありませんか。」

その時彼女は明かに青年の顔を見た。窶れた顔は淋しい輪郭をしていた。逼った額は一層彼の顔を淋しく見せた。堅く結んだ口元とうっとりとした悲しみの眼とは、一つ思いに満ちた心を示していた。で労わるような調子でこう答えた。

「みんな湖水のばかりなのですよ。」

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