TRENDIA CLASSIC

人生論ノート

三木清

1 / 92

死について

近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。年齡のせゐであらう。以前はあんなに死の恐怖について考へ、また書いた私ではあるが。

思ひがけなく來る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この數年の間に私は一度ならず近親の死に會つた。そして私はどんなに苦しんでゐる病人にも死の瞬間には平和が來ることを目撃した。墓に詣でても、昔のやうに陰慘な氣持になることがなくなり、墓場をフリードホーフ(平和の庭――但し語原學には關係がない)と呼ぶことが感覺的な實感をぴつたり言ひ表はしてゐることを思ふやうになつた。

私はあまり病氣をしないのであるが、病床に横になつた時には、不思議に心の落着きを覺えるのである。病氣の場合のほか眞實に心の落着きを感じることができないといふのは、現代人の一つの顯著な特徴、すでに現代人に極めて特徴的な病氣の一つである。

實際、今日の人間の多くはコンヴァレサンス(病氣の恢復)としてしか健康を感じることができないのではなからうか。これは青年の健康感とは違つてゐる。恢復期の健康感は自覺的であり、不安定である。健康といふのは元氣な若者においてのやうに自分が健康であることを自覺しない状態であるとすれば、これは健康といふこともできぬやうなものである。すでにルネサンスにはそのやうな健康がなかつた。ペトラルカなどが味はつたのは病氣恢復期の健康である。そこから生ずるリリシズムがルネサンス的人間を特徴附けてゐる。だから古典を復興しようとしたルネサンスは古典的であつたのではなく、むしろ浪漫的であつたのである。新しい古典主義はその時代において新たに興りつつあつた科學の精神によつてのみ可能であつた。ルネサンスの古典主義者はラファエロでなくてリオナルド・ダ・ヴィンチであつた。健康が恢復期の健康としてしか感じられないところに現代の根本的な抒情的、浪漫的性格がある。いまもし現代が新しいルネサンスであるとしたなら、そこから出てくる新しい古典主義の精神は如何なるものであらうか。

三木清の他の作品