TRENDIA CLASSIC

第一義の道

島木健作

1 / 49

「もう何時かしら」と眼ざめた瞬間におちかは思つた。思はずはつとした氣持で、頭を上げて雨戸の方を見た。戸の外はまだひつそりとして、隙間のどの一つからも白んだ向うはのぞかれはしない。安心して、寢返りを打つたが、まだどこか心の焦點のきまらぬ氣持で眼をしばたたいてゐると、闇のなかに浮動する樟腦の匂ひがかすかに動いた部屋の空氣につれてほのかに鼻さきににほうて來た。すると急にさめてきた心にどきんと胸をつく強さで今日といふ一日の重さが感じられた。血がすーつと顏から引いて、動悸がしだいにたかまつて來た。おちかは布團をずり下げ、上半身を乘り出して手をのばして枕もとをさぐつてみた。ゆうべ寢るとき取り揃へておいた衣類やその他身のまはりのものがそのままそこにある。それらを一つ一つさぐつてみてゐるうちに、昨夜夜ふけてひとり起き、羽織の乳に紐を通しなどしたとき胸にわいた思ひが、今またしみじみとしたものとして生きかへつて來るのだつた。その思ひにあたためられ、六十を越えた齡にあけがたはもうかなりに冷えをおぼえるこのごろの季節なのが、今朝はさほどの苦にはならなかつた。手足をのばし、おちかは少時うつとりとしてゐた。が、すぐに小きざみにからだがふるひ出し、ふるひは容易にとまらなかつた。根のゆるんだ齒がかたかたと音をたてて鳴つた。汗さへ流れでて來るやうであつた。ふたたび寢がへりをうち、のばしてゐた手足をまるめて何かだいじなものを抱くやうな氣持と姿勢でおちかはぢつとたへてゐるのであつたが、それはなにも寒さからではなかつた。間もなく時計が五時をうつた。

島木健作の他の作品