日本文学における一つの象徴
本文約8,600字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
光源氏が通う十八歳の末摘花が沈黙を貫く様を端緒に、沈黙の守護とそれが破られることで日本文学が始まった過程を論じる。また、仮面の歴史を辿り、猿楽や田楽に見られる面の種類や役割から、日本古来の仮面と外来の仮面の融合、神と精霊の対立という古層の構造を綴る。本書は、沈黙と饒舌という二つの面形が湛える象徴性を鍵として、日本文学発生の姿と芸能の起源を解き明かす一冊である。
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一 しゞまの姫
父君早世の後、辛い境涯が続いた。物豊かに備つた御殿も、段々がらんとした古屋敷になつて行く。其だけに、教養を積むこともなく、そんな中で唯大きくなつたと言ふばかりの常陸の姫君、家柄は限りもなく高かつた。だが、世馴れぬむつゝりした人のよいばかりの女としか育ちやうがなかつた。其うへ、わるいことには、色の抜けるほど白い代りに、鼻がぬうとして居て、其尖が赤かつた。髪の黒々と長かつたに繋らず、鼻筋が曲つて、すつきりした処と謂つては何処にもなかつた。其へ、光源氏が通ひ初めて、春立ち夏過ぎて、十八歳の秋、満月後の廿幾日である。手紙を遣しても、返事はなし、ほと/\根負けするばかりになつて居る。今夜だしぬけに、姫君の居る座近く辷り込んで行つた。近よつて見れば、なか/\口返事などあるどころの騒ぎではない。とてもひどいと言ふ外はなかつた。そこで、
幾そ度君がしゞまに負けぬらむ。ものな言ひそと 言はぬ頼みに
――お黙りと仰らぬだけが目つけもので、其だけをたよりに、私はあんなにしつきりない手紙をさしあげた。其が皆、むだになつて居ます。どれ位、あなたの無言の行に負かされて来たか知れない――
姫君は勿論、無言である。ところが、其乳兄弟に当る侍従と言ふ小気の利いた女が、姫君のしうちがあんまりなのでぢつとして居られぬやうな気がして、姫が言ふやうに聞かして、
鐘つきてとぢめむことは さすがにて、答へま憂きぞ、かつはあやなき
――いよ/\無言の行に這入る時には、鐘をつく。其ではないが、本気に無言ですましてしまふのも、でもどうかと思ふのだけれど、だからと言つて、答へる気もしない。此が、自分で自分がわからない気がします。(上の句、私の解説の逆を言ふ説が多い)――源氏物語「末摘花」
明治以後の文学用語の中にも、とりわけ好まれた点では、此しゞまなどが挙げられよう。だが詩の上の用例で見ると、恐らく昔びとが思ひも及ばないほど飛躍して使はれて居たやうである。つまり詩に限つて、高華であり、幽玄であり、亦極めて抽象的に用ゐられて来たものである。