初往診
本文約1,500字 ・ 読了時間 約4分
あらすじ(AIが作成しました)
開業医の男は、初めての往診で患者の子供にカンフルではなくモルヒネを注射したと思い込み、激しい動揺の中で恐ろしい事態の到来を予期する。診察室で不安に震えながら過ごす中、患者の母親が血相を変えて現れ、再び冷や汗を流す。しかし、母親の口から告げられたのは、子供が回復し、預け忘れた医療器具を壊してしまったという報告であった。医師は死の恐怖から解放され、目から涙を流す。
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先刻から彼は仕事が手につかなかった。一時間ばかり前に、往診から戻って来た彼は、人力車を降りるなり、逃げ込むように、玄関の隣りにある診察室へ入ると、その儘室内をあちこち歩いて深い物思いに沈むのであった。
彼の胸はいま、立っても居ても居られないような遣瀬ない気持で一ぱいであった。いつもは彼を慰さめてくれる庭先の花までが、彼を嘲って居るかのように思われた。眼に見ゆるもの、耳に聞くものが彼を苛立たせた。生憎、細君が留守であったので、憂を別つべき相手はなく、時々門の方をおずおず眺めては、今にも誰かが、息せき切って馳せ込んで来はしないかと心配するのであった。
どうしてあんな失敗をしたのだろう? 開業してから初めての往診! そのうれしさが、自分を有頂天にならしめたのであろうか? 彼は迎えの人力車に乗って、家を出懸けて行ったときの晴やかな感じを呪わしく思った。
患者は五歳になる男の児であった。彼が先方の家へついたときは、その児は痙攣を起して意識を失い、その唇も青ざめて居た。とりあえず湯を沸して貰って、その中に入れ、兎に角一時意識を恢復せしめることが出来たが、なお念のため、彼はカンフル注射を試みたのであった。
彼が注射を終って針をしまおうとしたとき、ふと傍の注射液の入って居た箱を眺めてはッと思った。彼の注射したのはカンフルではなくてモルヒネであったからである。
彼は穴があったら入りたいような気がした。それからは家人の言も耳に入らなかった。再び患者を眺める勇気さえなかった。挨拶もそこそこに、その家を出ると車の上に崩れるように身を投げた。
風のない、いやに蒸暑い午後であった。道の両側に茂った稲の葉には砂埃が白くたまって、彼処此処から、雨を呼ぶ蛙の声が聞えた。彼は額ににじむ汗を拭おうともせず、いまにどんな恐しいカタストロフィーが来るかと思って、胸の鼓動は益々激しくなった。