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TORENDIA

言文一致

本文約17,900字 ・ 読了時間 約36分

あらすじ(AIが作成しました)

日本の近代文学における「言文一致」運動の変遷と、その意義を論じる評論。明治期に始まった言文一致の試みが、いかに旧来の文体という殻を打ち破り、口語体へと至る過程で先人たちが苦悩したかを描く。また、小説から始まったとされるこの文体が、儀式的な文章を含めてどのように世間に受け入れられ、大正時代末期に「口語体」という言葉へと移行し、死語となっていったのかを著者の体験や記憶を交えて綴る。

水野葉舟

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死語となつた「言文一致」

「言文一致」といふ言葉は、今では既に推移し去つた過去のものになつてしまつてゐる。死語になつた感がある。その役目をすまし、次ぎの段階に移り進んで死んで脱殻になつてしまつたのである。

私は時折、日本の文章が、この半世紀の間に急流の勢ひで変遷して、今日の姿になつて来た跡が思ひ出される。言葉の生死もそれにつれて激しかつた。これはもとより止る処なき進歩の跡だ。固い殻、型にはめられてゐた境から、その古い殻を割つて、どこまでも心の動きを言葉に移して表さうとする意慾の激流が、この変遷を作り、今日が到来したのである。これに口火をつけた或る人々はあつたとしても、実は吾が民族の精神の活躍、心の煥発の実に若々しい力が求めて進んだ結果であると、思はざるを得ない。

「言文一致」の着手実行は、際立つた文体変遷の初ではあるが、流れのはじまりではない。これは明治文学史家の各々が何れも詳しく説明してゐる事実で、改めて言はなくつてもいい事と思ふが、簡単に私なりの考へも述べて見たい。

文章に対する国字或ひは表現の問題は、既に明治の初めから、いろいろの学者に依つて称へられ始めてゐた。これは決して欧米文化の模倣からではなく、新文化の移入に従つて、従来破る可からざる殻のやうに思はれてゐた表現形式に対する自覚が生じたのに因るものと見られる。これは当然生るべき自覚ではあつたらうが、時を隔てた今日からそれを振り返つて見ると、如何にも慧敏な心の動きで、それ等の憂悶を心に抱いた先人に対し、尊敬を禁じ得ないものがある。しかし、その主張をいろいろの書で読んで見ると、それらの文章が悉く旧い表現の「漢文」読み下し体のものなので、それらの意見が一つの机上の理づめの主張か、感能不随の心から生じたものかといふ疑ひが生ずる。さう考へたと言ふばかりで、それを現前する表現に移し得なかつたのが全く、思慮と行動とに有機的の働きがなかつたあとを見せてゐる。感能不随と見えるのはこの点である。

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