硯友社の勃興と道程
本文約31,400字 ・ 読了時間 約63分
あらすじ(AIが作成しました)
飯田町の中坂は、文豪滝沢馬琴の故居であると共に、明治の文学史に一エポックを画した硯友社の発祥地でもある。本作は、馬琴の史蹟としての歴史的な背景に触れつつ、若き日の硯友社同人たちとの邂逅や、中心的存在である紅葉との交友、そして彼の最期に至るまでの逸事を綴る。文学者としての過酷な制作的良心と知識への渇望を持ち続けた紅葉の姿を通し、著者が抱いた文豪としての畏敬の念と複雑な感慨を描く回想録である。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
一 飯田町の中坂――馬琴と「まどき」と思案外史
震災で破壊された東京の史蹟のその中で最も惜まれる一つは馬琴の硯の水の井戸である。馬琴の旧棲は何度も修繕されて殆んど旧観を喪ってるから、崩壊しても惜くないが、台所口の井戸は馬琴の在世時のままだそうだから、埋められたと聞くと惜まれる。が、井戸だから瓦や土砂で埋められても旧容を恢復するのは容易である。
この馬琴の硯の水の井戸は飯田町の中坂の中途、世継稲荷の筋向いの路次の奥にある。中坂といっても界隈の人を除いては余り知る者もあるまいが、九段の次の険しい坂である。東京のジオグラフィーを書くものは徳川三百年間随一の大文豪たる滝沢馬琴の故居の名蹟としてのこの中坂を特記する事を忘れてはならない。
馬琴は二十七、八歳、通油町の地本問屋蔦屋重三郎の帳面附けをしていた頃或人の世話で中坂の下駄屋で家主なる寡婦の入夫となった。漸く高名となってからは下駄屋を罷めて手習師匠となり、晩年には飯田町の家は娘に婿を取って家主の株を継がせ、自分は忰宗伯のために買った明神下の家に移って同居したが、一生の殆んど大部分は飯田町に暮したのだ。
九段の長谷川写真館の真向いを東へ下りる坂の下り口の北側が今では空地となってるが、この空地を外れて二、三軒目にツイ二十年前まであった小さな瀬戸物屋が馬琴の娘の婿の家で、今でも子孫が無商売でこの裏に住んでるそうだ。この路次裏の井戸が即ち馬琴の硯の水で、文芸の理解のない官憲も馬琴の名だけは知っていたと見えて、数年前から東京史蹟の高札が建てられた。王侯将相よりも文豪の尊敬される欧羅巴なら疾くに日本の名蹟とし東京の名誉とし将た飯田町の誇りとして手厚く保管し、金石に勒して永久に記念されべきはずであるが、戦場で拾って来た砲弾の記念碑を建てる事を知っていても学者や文人の墓石は平気で破壊するを少しも怪まない日本では、縦令高札を建てても何時この貴い古井戸を埋めてしまわないとは限らない。が、この古井戸がどうなろうとも、この中坂はグレート馬琴が半生を暮した故居の地として永久に記念されべき史蹟である。