恢復期
本文約13,600字 ・ 読了時間 約28分
あらすじ(AIが作成しました)
熱病により記憶と意識の大部分を失った卯女子は、熱海の静養先で周囲の世話を受けながら徐々に日常を取り戻していく。過去の記憶を遮断し、無垢な時間を過ごしていた卯女子は、ある日、庭で父と百合さんの親密な姿を垣間見る。その瞬間、忘れていたはずの記憶や意識が胸の中に満ちていくのを感じ、自身の肉体と生命の充実を静かに自覚していく過程を描く。
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美術を介したる人間の像に於ては、
静安なのが肉体の第一の美である。
――アングル随想録
[#改ページ]
一九二八年六月七日(熱海) 大いなる熱が私を解放した。私は再び鎔和された人間だ。いま霧のなかから静かに私の前にたち現れるのは、私の曾て知らなかつた新たな廻転をもつ世界である。その世界にはまだ何一つとして名のついてゐる物はない。この私が多分すべてを名づける者になるであらう。が今のところ私はただ、眼の前にひろがつてゆく此の限りない無秩序を愉しい期待の眸で眺めるだけだ。……いま私は、限りない無秩序と書いた。もう此処に過誤があるのではないか。私は果して、正しく無秩序と呼ばるべきものをさう呼んだのだらうか。いや、さうではない――決して。私は四囲から穏かに微笑みかける世界の顔にあまえて、つい不遜な言葉を使つてしまつたのだ。(人間にとつて、記憶といふものを全く剥脱することは大そう難しい事のやうである。見よ、私の再生にとつて大切な今この瞬間にさへ、古い記憶は薄ぼけた汚点となつて忍び込んで、それはやがて私の内奥の全体に蔽ひひろがらうとする気配を見せるのだ。私は畏れなければならない。)
私は再び何ものによつても汚されてはならない。
現在の私の世界は、一つの平面の上に単調な布置を形づくる幾つかの色と形とから成つてゐる。ここに私が単調といふのは、それらがお互ひに何の観念的な聯繋をも強ひられていないからだ。然しそこには、何といふ調和が憩うてゐることだらう。秩序なぞは欲しいとも思へないほどの静かな調和が。……私は平和をたのしむ。私は平和をたのしむ。