垂水
本文約9,000字 ・ 読了時間 約19分
あらすじ(AIが作成しました)
二十年前、垂水の別荘に引き取られた病弱な五泉男爵夫人李子と、遠縁の青年・曾根至。至は幼い頃から五泉家に冷遇され、屈折した野心を抱きつつ、許嫁である厚母麻子との婚姻を控えていた。しかし別荘での静かな生活を経て、李子と至の間には、血統と伝統の狭間で揺れる密かな心の距離が生じていく。やがて迎えた結婚披露の席、参列者たちの視線が交錯する中、物語は伝統に支えられた貴族社会の没落と、個々の内面に潜む欲望を描き出す。
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二十年ほども昔のこと、垂水の山寄りの、一めんの松林に蔽はれた谷あひを占める五泉家の別荘が、幾年このかた絶えて見せなかつた静かなさざめきを立ててゐた。その夏浅いころ、別荘の古びた冠木門を、定紋つきの自動車に運ばれて来た二人の人物が、くぐつて姿を消したのである。その日ののち、通りかかる里の人々の目は、崩れかけた築地のひまから、松林の奥に久方ぶりの燭火の幽かにまたたくのを見た。
丁度その年の秋の末に、五泉家のごく身近かには、一つの婚姻が予ての約束どほり果されようとしてゐた。では、立ち返つたさざめきは、直接それに因るものであつたらうか。いや、決して。婚姻がこの別荘に与へようとしてゐた影響は、余所目にうつるそれほどに単純なものではなかつた。仰々しい心根の人なら、たやすく苦痛の呻きをあげたに相違ない不図した過失からの責苦が、其処の住み手を捉へてゐたのであつた。ただ、糸のもつれは、慎みを無邪気な第二の天性にまで押しすすめてゐる此の別荘の人々の心の奥に宿つたため、そのままに破れ築地の内側に埋もれてしまひ、今も昔も変りない世の人心を喜ばせるための、公然とした取沙汰にならなかつたまでである。これには勿論、もう一つの理由として、二十年を溯つた頃のまだまだ物静かな時代の相も、一応は考へに入れる必要があらうけれども。……