地獄
本文約39,700字 ・ 読了時間 約80分
あらすじ(AIが作成しました)
亡くなった児玉院長の火葬に参列した繁夫は、告別式の僧侶や、院長と関係のあったK学院理事の仙波、故人の家族らの姿を観察する。繁夫は、生前に奇行や血圧の異常に苦しんだ院長の最期と、焼骨に残された変色したコメカミの骨、そして泰然と並ぶ腰椎骨の光景から、故人の人生とその内面について思索を巡らせる。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
[#ページの左右中央]
しかし、暗闇がそもそも画布なのだ。見覚えのある目つきの亡者どもが、ぼくの眼からほとばしつて、大勢そこに生きてゐる。
――ボオドレール
[#改ページ]
1
一人の医者が死んだ。それは彼の従姉のつれあひであつた。その男は、左のコメカミに大きな紫斑をにじませて、長い白木の箱に入れられて、鉄の運搬車に載せられて、火葬室の鉄扉へ足を向けて横たはつてゐる。はげしい火気で赤錆びの出た鉄扉がずらりと並んだ中で、ひときは大きいその扉には、特別一等の名誉のために、給仕頭のお四季施よろしく、銀色の唐草模様が絡んでゐる。運搬車の枕もとには、臨時の焼香台が据ゑられて、香煙が機械的に立ち昇つてゐる。紫の衣をきた小柄な老僧が、さつきから黄色い声で経をよんでゐる。それが、ひよいと懐へ手を入れかけて、あわてたやうに左後を振りかへつた。こんどは右後を振りかへつた。そして彼――繁夫をみとめると、手の平を上へ煽ぐやうにした。忘れてゐたのである。繁夫は制服のポケットから、折りたたんだ巻紙をとり出すと、進み出て手渡した。偈である。
議論ずきで洒落で、すつ頓狂なところさへある洪天和尚は、さつきいよいよ出棺の間ぎはになつて、偈を失念してゐたことを思ひだした。「こりやあかん、あかん」と、わざと大阪弁で言ひ、診察室へ飛びこんで、あり合せの巻紙にさらさらと書き流した。「火急の際ぢや、ええと何かいい文句はないかいな」と呟いたところを見ると、文句もどうやら有り合せらしいが、墨痕は淋漓としてさすがだつた。書き終へると繁夫に渡して、「君、持つててくれたまへ。このそそつかし屋が、また落すといかんでな」
繁夫は遺族の後列に戻ると、瓦灯窓に肩をもたせて目を伏せた。経が終つて、偈になる。声が沈んで、話しかけるやうな調子だ。どこかで女のすすりあげる声がした。偈は進んで末段にかかる。
会スヤ 明月清風 自己ノ三昧
青山緑水 打成一片
モト自カラ地獄ナシ
アニ又 天堂アランヤ
モシ未ダ会セズンバ
山僧ガ提携シ去ルヲ看ヨ……