TRENDIA CLASSIC

地獄

神西清

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しかし、暗闇がそもそも画布なのだ。見覚えのある目つきの亡者どもが、ぼくの眼からほとばしつて、大勢そこに生きてゐる。

――ボオドレール

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一人の医者が死んだ。それは彼の従姉のつれあひであつた。その男は、左のコメカミに大きな紫斑をにじませて、長い白木の箱に入れられて、鉄の運搬車に載せられて、火葬室の鉄扉へ足を向けて横たはつてゐる。はげしい火気で赤錆びの出た鉄扉がずらりと並んだ中で、ひときは大きいその扉には、特別一等の名誉のために、給仕頭のお四季施よろしく、銀色の唐草模様が絡んでゐる。運搬車の枕もとには、臨時の焼香台が据ゑられて、香煙が機械的に立ち昇つてゐる。紫の衣をきた小柄な老僧が、さつきから黄色い声で経をよんでゐる。それが、ひよいと懐へ手を入れかけて、あわてたやうに左後を振りかへつた。こんどは右後を振りかへつた。そして彼――繁夫をみとめると、手の平を上へ煽ぐやうにした。忘れてゐたのである。繁夫は制服のポケットから、折りたたんだ巻紙をとり出すと、進み出て手渡した。偈である。

議論ずきで洒落で、すつ頓狂なところさへある洪天和尚は、さつきいよいよ出棺の間ぎはになつて、偈を失念してゐたことを思ひだした。「こりやあかん、あかん」と、わざと大阪弁で言ひ、診察室へ飛びこんで、あり合せの巻紙にさらさらと書き流した。「火急の際ぢや、ええと何かいい文句はないかいな」と呟いたところを見ると、文句もどうやら有り合せらしいが、墨痕は淋漓としてさすがだつた。書き終へると繁夫に渡して、「君、持つててくれたまへ。このそそつかし屋が、また落すといかんでな」

繁夫は遺族の後列に戻ると、瓦灯窓に肩をもたせて目を伏せた。経が終つて、偈になる。声が沈んで、話しかけるやうな調子だ。どこかで女のすすりあげる声がした。偈は進んで末段にかかる。

会スヤ 明月清風 自己ノ三昧

青山緑水 打成一片

モト自カラ地獄ナシ

アニ又 天堂アランヤ

モシ未ダ会セズンバ

山僧ガ提携シ去ルヲ看ヨ……

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