大海人は今日も朝から猟だつた。午ちかく、どこではぐれたのか伴の者もつれず、一人でふらりと帰つてくると、宮前の橿の木のしたで赤駒の歩みをとめた。
舎人の小黒が、あわてて駈けだしてきて、手綱をおさへる。そして何か言つた。
「ほう、嶋が? 多治比ノ嶋が来てゐるのか?」
大海人は、よくかげ口をきかれる例の神鳴り声を、小黒の禿げ頭のてつぺんへ浴びせかけると、ゆらりと地上へおり立つた。おそるおそる、といふよりは反射的に、両手をさしのべたもう一人の舎人に、まづ弓をわたす。それから肩のヤナグヒを解いてわたす。例によつて獲物はないから、ほかには何も渡すものはない。
それなり、泥のだいぶはねかかつた行籘を、人一倍ながい脛で蹴たてるやうにしながら、宮殿の廻廊をまはつて大海人はすがたを消した。
点々と、熊の歩いたやうな泥沓のあとが、柱廊の敷瓦のうへにつづいてゐる。その跡を追ふやうに、中途までついて来た舎人の小黒は、黒ぐろとしたその泥の色から、ふと春の香をかいだやうに思つた。
ことしはこの飛鳥の内そとにも、めづらしく雪が多かつた。殊につい十日ほどまへ、遠智の岡ノ上に新たにおこされたミササギに、宝ノ太后と、間人ノ先后と大田ノ皇女と、――この親子三代のなきがらを合はせ葬つた日は、夜来の雪が日ねもす野山をこめて降りしきり、夜ふけてからは吹雪にさへなつて、これは何かの前兆ではあるまいかと、心ある人の胸をさわがせたほどの大雪だつた。
その雪がいま溶けるのである。さう言へば三月の声をきいて、はや四日たつ。例年ならば神奈備の杉むらがくれに、ちらほら花もまじらうといふ時分なのだが、今年はまだまだ、斑雪の方がはばを利かせてゐる始末だ。この分では、北ぐにはまだ雪のなかだらう。近江の国もずつと北寄りの、伊香古の奥から召されてきた小黒の心に、ふつと古里の雪の深さがかげるのである。