TRENDIA CLASSIC

ある思想家の手紙

和辻哲郎

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秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の単純な響きにも、心を捉えて放さないような無限に深いある力が感じられるのです。

私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想像し、その人々のために大きい愛を祈りました。ことに血なまぐさい戦場に倒れて死に面して苦しんでいる人の姿を思い浮かべると、私はじっとしていられない気がしました。

私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴える必要はないのです。あなたに聞いていただかなければならない事は、その後一時間ばかりして起こりました。それは何でもない小さい出来事ですが、しかし私の心を打ち砕くには十分でした。

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