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TORENDIA

茸狩り

本文約2,700字 ・ 読了時間 約6分

あらすじ(AIが作成しました)

山に近い農村で育った著者は、子供時代の茸狩りの体験を回想する。当初は親や仲間から教え込まれた茸の知識や価値観を頼りに探求を始めたが、夢中で森を歩き回る過程で、茸の国を訪ねてはそれらと対面する喜びや寂しさを自ら体験するようになる。この随筆は、茸の価値が個人の体験の相続と繰り返しによって形成されることを論じ、人間の存在の仕方に基づく価値の構造やそのあり方について考察を展開する。

和辻哲郎

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🎧 茸狩り / 朗読音声: VOICEVOX:もち子さん

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松茸の出るころになるといつも思い出すことであるが、茸という物が自分に対して持っている価値は子供時代の生活と離し難いように思われる。トルストイの確か『戦争と平和』だったかにそういう意味で茸狩りの非常に鮮やかな描写があったと思う。

自分は山近い農村で育ったので、秋には茸狩りが最上の楽しみであった。何歳のころからそれを始めたかは全然記憶がないが、小学校へはいるよりも以前であることだけは確かである。村から二、三町で松や雑木の林が始まり、それが子供にとって非常に広いと思われるほど続いて、やがて山の斜面へ移るのであるが、幼いころの茸狩りの場所はこの平地の林であり、小学校の三、四年にもなれば山腹から頂上へ、さらにその裏山へと探し回った。今ではその平地の林が開墾され、山の斜面が豊富な松茸山となっているが、そのころにはまだ松茸はきわめてまれで、松茸山として縄を張られている部分はわずかしかなかった。そこで子供たちにとっては、松茸を見いだしたということは、科学者がラディウムを見いだしたというほどの大事件であった。通例は松茸以外の茸をしか望むことができなかった。まず芝生めいた気分のところには初茸しかない。が、初茸は芝草のない灌木の下でも見いだすことができる。そういうところでなるべく小さい灌木の根元を注意すると、枯れ葉の下から黄茸や白茸を見いだすこともできる。その黄色や白色は非常に鮮やかで輝いて見える。さらにまれには、しめじ茸の一群を探しあてることもある。その鈍色はいかにも高貴な色調を帯びて、子供の心に満悦の情をみなぎらしてくれる。そうしてさらに一層まれに、すなわち数年の間に一度くらい、あの王者の威厳と聖人の香りをもってむっくりと落ち葉を持ち上げている松茸に、出逢うこともできたのである。

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