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TORENDIA

偶像崇拝の心理

本文約6,200字 ・ 読了時間 約13分

あらすじ(AIが作成しました)

千数百年前に渡来した仏教文化は、当時の日本において理論と象徴、真理と美が未分化な状態で融和していた。祖先たちは、宗教的な信仰を感覚的な歓喜として受け止め、壮大な伽藍や端厳な偶像に触れることで、烈しい感動とともに帰依の念を抱いた。本作は、仏教伝来がもたらした芸術的魅力と宗教的礼拝が不可分に結びつく心理を考察し、当時の僧侶がなぜ宗教的救済と芸術製作を一致させていたのか、その精神的必然性と偶像崇拝の根拠を論じる。

和辻哲郎

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🎧 偶像崇拝の心理 / 朗読音声: VOICEVOX:雨晴はう

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私がここに観察しようとするのは、「偶像破壊」の運動が破壊の目的物とした、「固定観念」の尊崇についてではない。文字通りに「偶像」を跪拝する心理についてである。しかしそれも、庶物崇拝の高い階段としての偶像崇拝全般にわたってではない。ただ、優れた芸術的作品を宗教的礼拝の対象とする狭い範囲にのみ限られている。

特に私は今、千数百年以前の我々の祖先の心境を心中に描きつつ、この問題を考察するのである。

まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科学、芸術、宗教、道徳その他医療や生活方法の便宜などへの関心等によって代表せられる人間の生のあらゆる活動が、なお明らかな分化を経験せずして緊密に結合融和せる一つの文化を思い浮かべる。そこでは理論は象徴と離れることができない。本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。体得した真理は直ちに肉体の上に強い力と権威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが融然として一つである。

千数百年以前にわが国へ襲来した仏教の文化はまさにかくのごときものであった。それはただ一つの新しい宗教であるというだけではなく、我々の祖先のあらゆる心を動かし得る多方面な(恐らくはインドとシナの文化の総計とも言い得べき)、内容の豊かな大きい力であった。もしそれが、ローマを襲ったキリスト教のように、単にただ純然たる宗教であったならば、あれほど激烈にわが国の文化全体を動かし得たかどうかは疑わしい。我らの祖先は当時なお、一つの偉大な宗教をただ宗教として、あるいは一つの偉大な思想をただ思想として、受け容れるほどには熟していなかった(シナの思想と学者とが渡来して以来二百年の間に、我々の祖先はただ文字を使うことを覚えただけであった。しかも意義ある記録を残し得るほどにはそれを活用することができなかった)。仏教の背後にその芸術的要素やシナの文化やその他種々のものが活らいていたからこそ、我々の祖先はあのように大きく動き始めたのである。そうしてついに大きい時代を現出する事ができたのである。

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