TRENDIA CLASSIC

夏目先生の追憶

和辻哲郎

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夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。私の心は先生の追懐に充ちている。しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰り出すことができない。私は夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。

昨日私は先生について筆を執る事を約した。その時の気持ちでは、先生を思い出すごとに涙ぐんでいるこのごろの自分にとって、先生の人格や芸術を論ずるのがせめてもの心やりであるように思えたのであった。しかし今日になってみると、私は自分の心があまりに落ちついていないのに驚く。何を論ずるのだ。今ここで追懐の涙なしに先生の人格を思うことができるのか。ことに先生の芸術については、今新しく読みかえしている暇がない。数多い製作のあるものはおぼろな記憶の霞のかなたにほとんど影を失いかかっている。あるものはただ少年時の感激によってのみ記憶され、あるものは幾年かの時日によって印象を鈍らされている。それでなお先生の芸術を云為することができるのか。――私はあえて筆を執ろうとする自分の無謀にも驚かざるを得ない。しかも今私は二、三の事を書きたい衝動に駆られ初めた。私は断片的になる危険を冒して一気に書き続けようと思う。(もうすぐに先生の死後九日目が初まる。田舎の事とてあたりは地の底に沈んで行くように静かである。あ、はるかに法鼓の音が聞こえて来る。あの海べの大きな寺でも信心深い人々がこの夜を徹しようとしているのだ。)

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